記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。
長い人類の歴史からすれば、まだ記憶に新しいと言える西暦2000年を多くの人はミレニアムと呼んで、記念日として盛り上げた。
正確に言うと、ミレニアムとは1000年紀とも呼ばれ、西暦における1000年の区切りを指す。
キリストが生誕してから1000年、2000年経過した年というわけだが、人がその年に巡り合うことはめったにないはずだ。
また2000年と言えば、コンピューターなどソフトウェアに置いて、設定の問題から2000年を迎えると誤動作が生じて社会が混乱するのではないかという騒ぎもあった。
実際には大きな問題はなかったが、何か2000年を迎えると何かが変わるか、何か新しいものが生まれるような不思議な感覚を持ったことを思い出す。
ローマの4大聖堂では、25年ごとを聖年として、聖なる扉が開けられるしきたりがあるが、ミレニアムの2000年は、さらに重要な100年ごとの大聖年として聖なる扉が開放されて、世界中から信者のみならず観光客が押し寄せる。
それこそ特別なご利益がありそうで、その8月に私も夏休みを利用してローマのサン・ピエトロ聖堂を訪れたが、聖なる扉をくぐる人々の長蛇の列ができていた。
キリスト教信者ではない私でも、何か厳かな気持ちとなり、人類にとってやはり特別な儀式の年だと感じたから不思議なものだ。
何よりも生きている間に、この聖なる年に巡り合うことは奇跡だとも思えた。
スポーツでは4年に一度の特別な大会、夏季オリンピックがオーストラリア・シドニーで2000年の9月15日から10月1日まで開催された。
南半球での開催はメルボルン大会以来44年ぶりであった。大会10日目の女子マラソンでは、日本の高橋尚子が2時間23分14秒の五輪新で優勝を果たした。
9月24日、日本とは2時間しか時差のないシドニー時間の午前9時、日本時間では7時スタートであったから、素晴らしいニュースは午前中の朝には日本全国を駆け巡った。
陸上競技では64年ぶり、女子では史上初の金メダル獲得の快挙であった。
女子陸上選手のオリンピックメダル獲得は、1928年アムステルダム大会で800m銀メダルの人見絹江さん、1992年バルセロナ大会マラソン銀メダルと1996年アトランタ大会マラソン銅メダルの有森裕子さんだけであるから、その偉大さがわかるというものだ。人見絹江さんから72年たったいうのも、やはり特別な気分にさせる。
小出監督との二人三脚で頭角を現した高橋尚子の愛称は“Qちゃん”。由来は意外なほどシンプルなものだと聞く。
最初に就職したリクルートの会社の何かの親睦会で、彼女が「オバケのQ太郎」のモノマネをしたかららしい。
藤子不二雄の名作漫画の主人公Qちゃんのモノマネとは、ほほえましい。そのQちゃんは、オリンピックではライバルのリディア・シモンと争いながら、34㎞地点で付けていたサングラスを投げ捨ててスパートし、会心のレース展開をみせた。
高橋尚子がレース前や練習中にも聞いていたある楽曲が、後日紹介されて有名になった。
HITOMIの「LOVE2000」である。アスリートが練習前や試合前にヘッドホンなどを付けて音楽を聴くのは、自身の集中のためだと言われるが、今では当たり前の光景も、当時はさほどメジャーでは無かったようにも思う。
偉大な金メダリストが好んで聞いていたというこの楽曲は、軽快なテンポとノリの良い歌詞などで好評を博して、その後はQちゃんのイメージも相まって、陸上競技のスポーツニュース背景などに使用されるなどした。
実はこの楽曲は、2000年6月、7月期における「劇空間プロ野球」すなわち日本テレビ系の巨人戦野球中継のイメージソングとして採用されていた。
わずか2か月でも、約20試合近いゴールデンタイムの地上波放送で必ずエンディングで流れたので、耳にする視聴者も多かったと思われる。
意外なところで、Qちゃんのエピソードと長嶋巨人のプロ野球が、既に不思議な交錯をしていたのである。
その野球と言えば、セリーグは巨人が順調に勝利を重ねてミレニアム優勝に迫っていた。
高橋尚子が優勝した9月24日は、東京ドームで、18時プレーボールの「巨人対中日」戦が行われた。
マジック1で王手をかけた巨人は、それでも9回表終了まで0対4と中日にリードを許し、優勝はお預けというムードが球場全体に漂っていた。
9回裏の巨人は、それでも先頭の元木がヒットで出塁。続く高橋由伸、3番松井秀喜もヒットを放ち、無死満塁のチャンスを作った。
マルティネスは三振でワンアウトになり、ここで登場したのが、背番号33の江藤である。
江藤はこのシーズンに広島から移籍してきたが、もともと広島で江藤が付けていた背番号は33であった。
しかしこの番号は、当時長嶋監督が付けていたので、監督は自身の33を江藤に譲り、自らは現役時代の背番号3に変更したのだ。
背番号3はスター長嶋の代名詞だったが、最初の監督時代は90、次期監督時代も33であったため、現役の背番号3復活は、往年の長嶋ファンを中心に歓喜で迎えられた。
シーズン開幕前の宮崎キャンプで、この背番号3の姿は公開されたが、練習中にそれまでスタジアムジャンパーを着こんでいた長嶋監督が、ノックを開始した直後に、いきなり、ぱっとジャンパーを脱ぎ、あえて大勢の観衆の前で3番をお披露目した演出も憎かった。
長嶋さんは監督になっても、やはり当代きってのサービス精神に溢れたスターだった。
話を緊迫した9回裏に戻そう。
中日のピッチャーは抑えのエース、ギャラードに交代していた。一死満塁とはいえ、まだ4対0と中日リードの局面だ。
巨人にとっては最悪の場合、ゲッツーで終了も考えられて、優勝は持ちこされる。
ギャラード対江藤のカウントは、ツーボール、ノーストライクとなった3球目。
ストレートに的を絞っていた江藤のバットが一閃、打球は左中間スタンド中段に突き刺さる同点ホームランが生まれた。
ドラマはここで終わらない。
敗戦ムード一色の東京ドーム巨人ファンが揺れる中、次打者の二岡のカウントはワンボール。
まだ江藤の土壇場での同点ホームランの余韻が残り、妙に場内のざわめきが消えない中で、奇跡的な瞬間が訪れた。
二岡の打球は右中間スタンドに飛び込んで、5対4と逆転サヨナラホームランが生まれて巨人が4年ぶり29回目のセリーグ優勝を達成したのだ。
2000年当時、私は巨人戦野球中継のプロデュ―サーを担当しており、2月の宮崎キャンプでの背番号3復活お披露目から、東京ドームにおける巨人ホームゲームの約70試合の地上波放送に携わる長いシーズンを放送人として過ごしていた。
開幕前から、2000年は区切りの特別な年であり、このミレニアム優勝を全力で目指すと語っていたのが長嶋監督だったが、メークドラマ、ミレニアム優勝など、オシャレな造語を生み出し、マスコミに広く取り上げられる天才でもあった。
マジック1に迫ったこの日、日本テレビは巨人の優勝に備えて特別な編成を組んでいた。
普段は試合途中でも20分延長程度で打ち切るが、こうした優勝が懸かった試合は、例えば5分、10分刻みで、延長階段を組んで試合終了まで放送する。
テレビ局の都合ではあるが、後続の定時番組やスポンサーへの配慮を考えると、大変な決断である。
そして無駄な延長は視聴率対策やスポンサー対策、後ろの番組のことを考慮すると許されないから、どこで延長を切り替えるか、非常に重要な判断と決断が迫られるのだ。
あの時、最悪はゲッツーなどで9回裏の巨人の攻撃が途絶えて試合終了になれば、何時何分かで素早く野球中継枠を終える必要があった。
確か延長階段は10段階以上、細かく設定されており、それぞれうち切るか、延伸するかの判断時間も細かく決められていたのだ。
しかし江藤の満塁ホームランで試合は続行になったから、次の延長階段へと進む。そして頭を切り替える間もなく、二岡の満塁ホームランが飛び出して、巨人の優勝が決まった!
しかしこの余韻はどうするか、胴上げのタイミングは、そして喜びの声を聞くためのインタビューはいつ始まって時間の尺はどうなるのか・・。その後の記者会見も続いていく。
編成上は幸か不幸か、後続の番組は巨人優勝特番30分が控えていた。優勝特番と言っても、中身は選手、監督ら同士で祝う、恒例のビールかけである。
しかし無駄に野球枠の時間を余らせてもいけないし、何より特番の放送スタート時間を決定しても、記者会見を終えた長嶋監督が冒頭に間に合わなければ、番組枠自体が始まっても、祝杯の御発声やビールかけを始めることができない。慎重に番組枠切り時間を設定する必要がある。
長嶋監督が宙に舞った。
東京ドーム内の特設スタジオと呼ばれる場所にいた私は、モニターでそれを確認しながら、次の段取りを本社にいる編成担当とホットラインでやり取りしながら、延長時間を決めていく。これはプロデューサーの大事な役目である。
長嶋監督のテレビインタビューが全国に流れた。
監督はこの後、記者会見場に移動する予定だ。
選手たちは原辰徳ヘッドコーチ(当時)の指示で、選手ロビーから特番会場の東京ドームホテルに徒歩で移動しているとの情報が入る。
インタビュー、記者会見から、次枠の優勝ビールかけ特番まで、ぶち抜きの地上波生放送は続くのだ。
多くのメデイアを前に長嶋監督の記者会見が始まった。
全ての状況を総合的に判断して、ようやくビールかけ特番の開始時間を決めた。
後は、選手が待ち受ける会場に長嶋監督を時間通りにエスコートするだけだ。
放送スタッフも巨人関係者も一様にドームホテルで既にスタンバイしていたので、私は長嶋監督を一人で会場まで案内した。
球場から隣接するドームホテルまでの移動はわずか数分程度の時間だ。
2人きりなので大いに緊張し、「おめでとうございます。奇跡的な勝ち方でしたね」といった平凡なことしか言えなかったように思うが、このような歴史的な瞬間に立ち会えて幸せだった。時が止まればいいと思った。
長嶋さんは優しい笑顔で「ですね。ミラクルなドラマでした」と、いつもよりまた1オクターブ高い声で答えてくれたと記憶している。
翌日の新聞各紙の報道は、一面が高橋尚子、シドニー五輪金メダル獲得だった。
報知新聞だけは、巨人優勝を一面にしていたと覚えている。
特別な年とは、特別な一日とは、特別な瞬間とは・・人それぞれに違うのは間違いない。
しかし、俗にミレニアムと呼ばれた西暦2000年9月24日は、スポーツの歴史の中で、巡りあう事が稀な、間違いなく素敵で忘れがたい、長い一日であったと思う。
文章の後半では、テレビマンとしての私の特別な思い出を書かせてもらったが、確かに個人的な強い感情も入っているのかもしれない。
それでも、午前中に高橋尚子の女子陸上界史上初のオリンピック金メダルに歓喜し、夕方から夜にかけては、9回裏土壇場からの江藤、二岡のホームランでの劇的な巨人優勝に巨人ファンならずとも驚き、日本中が酔った長い一日だった。
スポーツの持つ素晴らしさを満喫できた特別な一日・・。例えば午前中にWBC世界一達成の瞬間を見て、夜にワールドカップ日本代表がスペインを撃破した試合をみられるような特別な一日である。
ミレニアムや聖年ならずとも、これから先、こうした特別な一日が何回あるのかはわからないが、ぜひそんな一日が自分たちの人生で、数多く巡って来ることを期待している。
ミレニアム1000年、いや100年、いやいや10年だって待てないほどに、誰もがスポーツの輝く魅力に満ち溢れた一日に少しでも多く、巡り会いたいと思っているに違いない。