Essay

シリーズ・記憶の解凍⑦「1972年札幌オリンピック回顧」~2030年札幌招致の動きの中で~

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

折しも、2023年の現在、1972年に続いての2030年冬季オリンピック・パラリンピック招致をめぐって札幌が問われている。
2021年東京の夏季大会が終了した時点では、次の2030年の冬季大会は札幌で、という機運は高まっていた。何より開催に立候補する都市が少なくなり、IOC(国際オリンピック連盟)としても札幌開催に期待をしていた。
1972年開催のレガシー施設もある。札幌の経済界も望んでいる。そして何より美しく競技に適したパウダースノーが魅力的らしい。
ところが2022年に入ってから東京大会での汚職問題や、談合事件と相次ぐ不祥事により、オリンピック開催に対しての逆風が吹き荒れている。
つい最近、IOCは2030年開催のターゲットを他の都市に切り替えたとまで報道された。
先に3期の再選を果たしたばかりの秋元克広札幌市長も、2034年に開催を先延ばしすることまで視野に入れ、JOCとも相談すると報道されたが、招致中止も延期も何も決まっていないというのが事実のようだ。
シリーズ・記憶の解凍については、過去のオリンピックについても様々な角度から光を当ててみたいと思って書きためていた。
そして、このタイミングだからこそ「1972年札幌オリンピック回顧」を急遽、皆様に読んでいただきたいと考えた。

近代オリンピックは、これまでに夏季29回、冬季24回開催された。
日本では1964年夏季東京、1972年冬季札幌、1998年冬季長野、そして2020年夏季東京大会はコロナ禍の影響で1年延期の2021年に開催された。
一つの国で4回以上もオリンピックが開催されたのはアメリカ、フランス、日本のみである。
また一都市での複数開催は、夏季ではロンドンの3回、パリの2回、アテネの2回、ロサンジェルスの2回、そして東京の2回だけである。
ちなみに2024年夏季大会はパリで、2028年はロサンジェルスでの開催が決定しているから、オリンピックは限定された都市での開催が多いのは事実だ。
事実、南米、東アジア地域での開催こそあるがアフリカ大陸、中東での開催は実現していない。何と言ってもその都市や国が開催を強く希望することが大前提であり、その主な目的は開催都市の活性等、観光、商業などの経済効果も含めた街おこしと言われ続けて来た。
日本で開催された4つのオリンピックは果たしてこの国に何をもたらしたのだろうか?
オリンピックを開催するということ、その意義とレガシーとは一体何だろう。その一方で負の遺産も生みだしたのではないか。

1960年からの高度経済成長期と21世紀の時代背景はあまりにも違う。
ただし人類が生み出した最高のスポーツの祭典であったはずのオリンピック開催は、本来なら、その時代に生きる者たちにとって有用なレガシー(遺産)を遺すためにあるべきだと思う。
1964年当時、小学生だった私は1972年には中学生となり、1998年は日本テレビの一員としてオリンピック放送に関わり、そして2021年は大会組織委員会のメンバーの一人として大会を経験した。
純粋に子供の頃に経験した、1964東京、1972札幌の昭和のノスタルジーを纏った思い出こそが懐かしい。
開催の政治的背景や、IOCの掲げる理念だけではない戦略、莫大にかかるお金のことなど一切知らなかった少年時代のオリンピック体験にこそ、ひょっとすると一番原初的な、純粋なオリンピックの良さを見いだせるのかもしれない。
そう思って、今回はまず、1972年札幌オリンピックを回顧したいと思ったのだ。

まずは1972年招致を実現した札幌という都市は、日本においてどういった位置付けだったのだろう。
1970年代の札幌の時代背景は、日本全体の高度経済成長期を受けて、本州から離れた北の地、札幌でも都市の発展を目指して開発が推進された。
人口も100万人都市を目指し、オリンピック開催等による経済効果も期待されていた。
そして札幌は、アジアで初の冬季オリンピック開催の名誉を担った。

またオリンピック放送史上初めてのフルカラーの放送が、白銀の世界に色を添えた大会だった。
1964年の東京オリンピックでも一部カラー放送だったが、そこから一気に世界はカラー放送の時代になっていた。
白の中の色が何と映えることか、改めて知ったのも札幌オリンピックだった。
雪や氷の上だからこそ、赤や黄色のウエアー、黒いコスチュームまで印象的に浮き立って見えたから不思議だ。

札幌大会の概要と規模をおさらいしておこう。
1972年2月3日から13日までの11日間、参加国・地域は35、参加アスリート1006名、6つの競技、35種目だった。
参考までに、最近の北京大会などとの大会規模を比較するために、以下の資料を添付しておく。

<過去の冬季オリンピック開催規模の比較>

大会名期間参加国・地域参加アスリート数男女比率競技・種目数
札幌
1972
23日~13
11日間)
351006男子801
女子205
6競技
35
種目
長野
1998
27日~22
16日間)
722302男子1488
女子814
7競技
68
種目
北京
2022
24日~20
17日間)
912871男子
女子 (公式発表把握なし)
7競技
109
種目

いかにオリンピックの大会規模が拡大してきたかがよくわかると共に、直近の北京大会では女性参加比率は45%と言われており、札幌大会は約20%であったから女性アスリートの参加の拡大も見てとれるだろう。
最近のIOCによる女性アスリートの参加推進や、女性理事登用の動きは評価していいのではないか。
札幌大会開催の背景と、大会概要と規模については、大人になった私がおさらいしたところ、ざっと以上のようなものである。

そして当時中学2年生だった私の、テレビや新聞、雑誌を通じて体験した1972札幌大会の思い出のいくつかは以下であり、同世代の方々とほぼ同じであろう。
これらは全て資料データや数字というよりも、テレビや写真といった映像を中心に私の中に焼き付いた記憶である。まず挙げたいのは、普段はテレビではお目にかかれないスポーツに夢中になれたことだ。
正直に言うと冬季のスポーツ競技は、日本においてはまだまだマイナーな扱いであったし、メデイアに登場することもあまりなかったのだ。
フィギアスケートやスピードスケート、アルペンスキー、そしてジャンプ競技ですら、映像で見る機会は希少だった。
またボブスレーやリュージュ、バイアスロンといった競技があることも初めて知った。
そして大会中、テレビの前に釘付けになったのは、なんといっても男子ジャンプ70m級(現在のノーマルヒル)であろう。
ジャンプ競技を観る機会に慣れていなかったせいか、宮の森のジャンプ台から飛び出し、大空を駆ける鳥になったような選手たちの姿が本当に美しいと思った。
笠谷幸雄、今野昭次、青地清二による金、銀、銅独占には胸が躍った。
かつてない偉業に、このジャンプチームは日の丸飛行隊と呼ばれたが、昭和のネーミングも懐かしい。

1964年の東京大会もそうだったが、日本人選手のみならず世界のヒーローやヒロインに出逢えることもオリンピックの魅力だった。
その筆頭は、女子フィギアスケートで銅メダルを獲得した18歳のジャネット・リンである。
フリーの演技でしりもちをついてしまいながらも、最後まで笑顔で滑り切った、アメリカ人のヒロインは、その愛くるしい笑顔から「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれて日本中で人気を集めた。当時の少年少女雑誌の表紙になるどころか、カルピスのCMにも登場したから、強烈な記憶を残した。スポーツの世界は広く言葉を超える存在だと再認識した。

記憶と言えば、大会の公式テーマ曲に選定された、トワ・エ・モワが唄った「虹と雪のバラード」も長く歌い継がれている。作詞:河邨文一郎、作曲:村井邦彦で、作詞家の河邨さんは小樽市出身の医学教授で詩人でもあった。
前回の1968年グルノーブル大会のテーマ曲は、フランシス・レイ作曲のバラードで世界的にヒットした「白い恋人たち」。その後をうけただけに、楽曲選定は慎重かつ不安もあったのかもしれないと憶測する。
しかし「白い恋人たち」の原曲はメロディだけだったのに対して、見事な地元愛を織り込んだ歌詞に乗せた「虹と雪のバラード」も多くの人を魅了する名曲となったと思う。
その歌詞は、あまりにストレートと言ってしまえばそれまでだが、盛り込まれたシンプルな郷土への愛情と、都市発展への期待がこもっていて素敵だと思う。

♪町ができる、美しい町が、溢れる旗、叫び、そして唄・・     (全体の歌詞から一部抜粋)
生まれかわる サッポロの地に 君の名を書く オリンピックと♪

その後、オリンピックという舞台と映像にマッチした音楽が定着していったようにも思うが、日本でもテレビ各局が独自のイメージソングという形で楽曲を選定し提供していったから、このような大会を象徴し、歌い継がれる音楽は、東京2020でも生まれなかったように私は思う。
IOCのルールであるとか、多様性の時代と言ってしまえばそれまでだが、やや寂しい気もしてしまう。

そして一番避けて通れない話題こそが、札幌大会でも現実に起きた現代のオリンピックに繋がる負の遺産についてであろう。
そうしてこれは、将来のオリンピックの開催意義の議論に繋がるテーマを含んでいる。

まずは、冬季スポーツのおける会場の設定には高いハードルが求められるということ。スケート競技などと違い、特にアルペンスキー競技などは大自然の中で大会運営をするために、環境に対する配慮が求められるのだ。
そして環境保護と大会準備、運営との葛藤の歴史が、1972年の札幌でもすでにあった。
アルペンスキー男女滑降会場となった千歳市の恵庭岳コースは、FIS(国際スキー連盟)のコース設定基準を満たすための距離や傾斜を確保するために、国立公園でもある山林の1320m地点の南西斜面にあった樹齢100年余りのエゾ松が約20ヘクタールほど伐採された。
招致時点でのプランでは設定基準を満たさないとの指摘が原因だが、日本では、アルペンスキーの盛んな欧州のような環境を常設では作れていない状況もあったと思う。
自然保護団体の猛烈な反対に対して、大会後にはエゾ松の植樹など、組織委員会による原状復帰の約束がなされたが、事はそう簡単には運ばなかったようである。
美しい恵庭岳の山腹に後で植林した樹々は、オリジナルのものと違う種類のもので、冬になるとコースの跡がくっきりと浮かび上がっていたのだ。
作業の公的な復元まで17年かかり、現在では何とか元の姿に近くなるまで修復されたと聞くが、それでも完全にもとに戻ったわけではないようだ。
自然とはかくもデリケートなものである。ちなみに2030年札幌招致のプランでは、この会場は候補に入っていない。

関連して、札幌の次の1976年大会はアメリカの都市デンバーが、住民投票によりオリンピック史上初の返上という事態まで起きた。
既に開催が決定していたが、1972年11月に近隣の自然環境破壊に反対する住民の力で、覆したのだ。大会まで4年を切っていたから大変だったろう。
オーストリアのインスブルックが代替都市として開催されたが、1964年開催の実績とレガシーがあったから成功したと言われている。
それほど、自然との調和に基付く会場設定こそが求められるという認識を、私たちは持たなくてはならない。

オリンピックの将来につながる話として、アマチュアリズムとは何か?という問題も起きた。
札幌大会の開催前に、オリンピック憲章に示されたアマチュアリズムをめぐって大きな論争が巻き起こった。IOCのブランデージ会長(当時)は報酬を受け取ったとされる40人のアルペンスキー選手の参加資格を剥奪すると発表、それに対してFIS(国際スキー連盟)がスキー競技をボイコットする可能性があると言い出し、両者は対立関係になった為、妥協策としてオーストリアのカール・シュランツの出場を認めない事で決着した。シュランツは、自身の名前と写真を広告目的で使用し、スキーメーカーから多額のギャラを貰っていたとされて選手村から追放された。全てはアマチュア規定違反の名のもとに遂行された。その後1989年に復権しているが、来日してから開幕3日前の追放は悲しく、残念だった。
また、カナダも共産圏の選手が実質はプロであるのに参加が認められたことに反発、アイスホッケーチームの派遣を拒否した。
本来アスリートを主人公にして考えるべき大会が、手垢の付いたアマチュアリズムで損なわれるのは大きな損失だったはずだ。
幸いにその後、IOCはその古い体質を改善してプロの参加を認めていったが、ドーピング問題、ジェンダー問題他まだまだ取り組むべき課題は山積みだと思う。

さて1972年の当時、まだ中学生だった私は、後にテレビ局に身を置いてオリンピックに関わっていくとは想像していなかった。
ましてや2014年から21年まで東京オリンピック・パラリンピック組織委員会に所属して、深くオリンピックにも関わっていくとは・・。
その中で、オリンピックが時代と共に変わっていく姿を見ることにもなった。
アマチュアリズム、女性アスリートの進出、ジェンダー含めた多様性など。そして何より開催都市の抱える諸問題、開催と引き換えに失うものも、いかに多いかということも知ることになった。
いい時代だった、オリンピックを開催して都市が発展した、外国人を含む多くの観光客が訪れて街は潤った・・もはや昭和のノスタルジーだけでは開催の意義を謳うわけにはいかないはずだ。
今更ながら、オリンピック開催に際しての理念、哲学が問われる。
その理念や哲学に対して、如何に多くの北海道民を中心に理解を得られるかがカギであろう。

申し訳ないとは思うが、あの恵庭のコースの自然破壊問題なども他人ごとにしか思っていなかった14歳の少年は、今やオリンピック開催の功罪まで語るべきだと感じるまでになった。
オリンピック招致に関して、私なりの考え方はこうだ。

まずは、オリンピック開催予算はオープンになっていて、それぞれの算出根拠は事実であろう。
既存会場を使用するから新設の建設費は無用、会場はコンパクトにちりばめられて輸送経費も抑えられる、など招致プランに嘘はないと思われる。
しかし肝心なことはその予算の妥当性をきちんと事細かに検証して、業者設定に関しても相場を常にオープンかつフェアーにしたうえで進めることであろう。具体的には、アイスホッケー、フィギアスケートなどの会場運営費、バス輸送、ホテルの適性価格はどうかなど、その道のプロが責任と権限を持って公平に査定するような組織が必要だと思う。それを財務的に徹底的に検証する機能も必要だろう。
加えて、それぞれの運営能力や管理能力をきちんと採点し、安かろう悪かろうにならない委託にしないと大会運営に支障をきたすことがあることも知らなくてはならないと思う。
東京2020がさぼったとは思わないが、個人的な感想としてはもっとその道ごとのプロを早い段階から雇用して、最後まで責任を持たす組織を完全に作れなかった印象がある。業界ごとのプロを長期間雇うに必要な人件費の問題がネックとなったのは事実だろう。
しかし民意が得られて札幌が正式に招致を進めるのなら、最低条件として今一度全てのジャンルに関してプロや経験者の意見を聞いて、各項目予算の洗い直しも是非にして欲しい。
しかし、そのように備えてもIOCや国際信号を制作する、すなわちテレビ放送を全世界に向けて発信するOBS(オリンピックブロードキャストサービス)の要求とのすり合わせ交渉も実は大変なのだ。
オリンピックの開催都市契約自体、不平等条約と言われて開催都市に予算負担もかなり強いるものだというのは、会場変更論や、コロナ禍の延期議論の時によく報道された。ただ不平等という言い方には若干の誤解もあると、元・組織委員会の放送部門担当者の目線から思うことは幾つかある。
あまたの契約書と同じで、詳細に書いていない項目については双方合議の上で決定するというのが開催都市契約であり、それがオリンピックの場合多岐に渡ることが多いのと、予算的にも行政的にもインパクトのある内容を伴うことを心しなくてはならないということもある。

招致プランでの羽田沖のセーリング会場(若洲アリーナ計画による)においては、OBSが国際信号を制作するために不可欠なヘリコプターの飛行が羽田空港周辺のルールにより制限されるために、やむなく江ノ島に会場を変更した。すると関係者の移動経費だけみても、当初予算よりも倍増することになる。当時の舛添都知事が、ニュースのインタビューで経緯を詳細に説明したが、多くの人はそこでOBSという言葉を初めて知ったのではないか。いずれにせよ当初、全世界向けの国際放送に不可欠な専門的な要件を考慮せずに、というより知識がないまま会場を計画設定していたのだ。
また国際放送センター(IBC)に指定された有明の東京ビッグサイトは、OBSの運営に必要な条件の面積を満たしておらず拡大せざるを得なかった。
そのため東京ビッグサイトエリアに設営するプランだったレスリングやフェンシング、テコンドーは、キャパの問題から千葉県の幕張に会場を変更した。
この必要面積はIOCやOBSの発行した放送のテクニカルマニュアル(開催に関する様々な事項について要件をまとめたもの)に明記されていたが、招致プランでは熟慮されなかったようだ。
そしてこのIBCの組織委からOBSへの引き渡し(ハンドオーバー)が1年以上、復帰まで含めると20か月になるという条件も、招致決定以降の2015年に正式にアナウンスされた。東京ビッグサイト展示場の借用期間問題として、数々のエキジビジョン使用に影響が出て経済損失だと大きく報道された。IBC引き渡しルールも、テクニカルマニュアルに規定されている。ちなみに夏季は少なくとも1年前、冬季の場合は9か月前となっている。
この件は、OBSからの後出しじゃんけんの要素がなかったとは言えないが、調整は大変で、お互いの妥協案を示しながら着地したと記憶している。
組織委員会に身を置いた者として守秘義務もあるので詳細は割愛するが、いずれも一般に報道されたものばかりである。
テレビ放送に関する要求を詳しく分析すると、上記の様な要件をよく理解しておく必要がある。もちろん放送関係だけでなく、プランの変更は時間もお金も余計にかかるものだから、東京2020大会の経験を踏まえて周到に準備を進める必要があるということだ。
また様々な発注や調達を可能な限り早くした方がいいと、IOCやOBSからよく言われた。
1年延びれば、調達費用は値上がりするなど当初の費用よりかさむ危険性が高いからだ。わかっていても国内事情があるのだが、稟議、決定などのスピードも求められるだろう。そうやって費用の最小化を目指すことを具体的に宣言、詳細に渡って遂行していく事がよいのではないか。
いずれにしても現状のIOCとの開催都市契約は、開催都市に多くの負担が求められていることを再認識して、それでもなお開催するという覚悟は必要だろう。
あるいはIOCメンバーの様々な国の代表たちと、もっとよりよい開催の条件を議論して、改革をIOCに促すことも必要なのかもしれない。
開催に名乗りを上げる都市が減っていく状況では、そうした発言のいい機会のはずだ。

そして何よりオリンピック、パラリンピックのレガシー(遺産)をどのように残すかが重要だ。
スポーツ施設は1972年の既存会場が改修を重ねながらも、2030年以降も市民の憩いの場であり続けることを願う。
ウインタースポーツのメッカの一都市として歩みを止めないで欲しい。
地下鉄や道路の新設、空港の利便性アップなどインフラの充実も期待したい。都市の発展の基礎はそういったところにもあるはずだから。
多くの外国人を含めた観光客による経済効果、そうした人々との国際交流も素敵だろう。
アクセスフリーな施設や移動手段の拡充も、障害のある方のみならず、高齢者社会には不可欠なものだから推進のチャンスだろう。

しかし一番大切なのは、スポーツを愛する心の継承かもしれない。先に述べたような開催における負の要素をクリアしたうえでなら、1972年私が抱いたような感動を、今の子供たちにも味わってもらいたい、語り継いでいって欲しいと強く願う。
であれば開催に不都合な状況に直面した今、札幌開催が2030年から2034年に延期したとしても、目指していく意義はあると私は思う。
将来にわたってオリンピック、パラリンピックにおけるスポーツの純粋で強烈な記憶は、永遠に消えないと思うからだ。

(追記)
テレビ放送人だった私としては、国際信号制作についても触れておきたいと思う。
札幌大会のテレビ・ラジオ制作は全てNHKに委託されたが、アルペンスキーの回転、大回転の一部競技だけ地元民放・北海道放送(HBC)が制作した。国際信号は全てカラー放送で、制作総時間数は162時間35分で、NHKの放送も90時間にのぼった。
参考までに1998年長野大会はORTO'98(オリンピック・ラジオ・テレビ放送機構)を日本人の手で組織し、アイスホッケーなど一部競技を除いてNHKと民放各局が分担して国際信号制作を行った。
ただし2010年冬季バンクーバー大会からOBSが全て国際信号を制作する仕組みになったので、今後の大会も全てOBSが担当する予定だ。
OBSとはIOCが配下に置く組織で、マドリードを拠点に約30ヵ国の放送人約160名が社員として働いている。
恒常的なチームで計画的に遂行することによる準備の効率化、均等で高い品質の放送を実現することを目的としている。
ちなみに2018年平昌、2022年北京大会のジャンプ競技は札幌テレビ(STV)がOBSに委託されて制作を担当した。
参考までに東京2020大会は、OBSの国際信号制作時間は10200時間以上のコンテンツを制作配信し、日本の放送でもNHKと民放合わせて1280時間の放送を行った。夏季と冬季の規模の差はあるが、この50年で、テレビ放送規模(現在では配信など多くのソフトを含む)は驚くほどまでに膨らんできたと言える。
今ではテレビオリンピックとまで呼ばれる所以の一つも、こうしたところに見受けられる。
開催都市の組織委員会は、くれぐれもテレビ放送準備にかかる組織委負担分のコストを、読み間違えないようにしていただきたいと思う。
組織委員会の予算についてはIOCからの補助金もあり、東京大会では全体予算の約23%を占めた。
その大元の、IOCの財源の約50%は放送権収入であり、大会のテレビ放送に向けた準備には万全を期すように強く求められるので、そのインパクトは大変大きいと考えるからである。

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