記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。
1990年代の欧州を席巻したイタリアサッカーの名門チームACミランを作り上げたのは、オーナーのベルルスコーニ氏だ。ベルルスコーニは当時メディア王と言われた実業家で、メディアセットと呼ばれる放送局を自身で持つ大富豪でもあった。
メディアを自身の手で持つ影響力は計り知れないと思うが、後にイタリア首相をも長く務めるこのユニーク極まりないオーナーは、その資金力を生かして強いチームを作る野望を持っていた。日本で言えば野球の巨人軍を作り、メディアの力で人気を醸成した読売新聞社・正力松太郎氏が有名である。昭和の時代とはいえ読売新聞社と日本テレビの持つパワーで国民的な野球人気を生み出して、その中心にはいつも巨人軍がいた。
子どもの好きなものの代名詞として「巨人、大鵬、卵焼き」がもてはやされた。
さてベルルスコーニの話である。
彼は、当時オランダトリオのフリット、ファンバステン、ライカールトを多額の移籍金でチームに呼び、もちろんイタリア人のバレーシやマルディーニなど素晴らしいプレーヤーをそろえて欧州の頂点に君臨するチームを誕生させていた。
もともとACミランはイタリアの強豪で歴史こそあったが、1969年超頭脳と呼ばれたリベラらを擁して欧州一になって以来、欧州チャンピオンズカップ優勝から遠ざかっていた。
1986年からオーナーに就き、何としても欧州制覇を目論むべルルスコーニは、アリゴ・サッキ監督を招聘して負けないフットボールを実践させた。
ミラノ郊外にあるACミランの練習場ミラネッロを訪問取材した時のことだ。
轟音を響かせて一機のジェットヘリがメイン練習場の芝に降りてきたが、そこに乗っていたのはべルルスコーニだった。週末のセリエAの試合の直前練習に、ミラノから飛んできて、わずか1分ほど選手に檄を飛ばしてそそくさと帰っていった。何と贅沢な移動なのだろうと感じたが、あのフリットたちが神妙な顔つきで対応していたのも印象的だった。
そしてそんな彼のチームが、最初に大きな成果を達成したのが、1989年5月24日にバルセロナのカンプノウで開催された欧州チャンピオンズカップの決勝戦だ。
現在ではチャンピオンズリーグと呼ばれる、この一発勝負で欧州一を決める試合に於いてACミランは何と4対0でルーマニアのステアウアブカレストを撃破した。ファンバステンが2点、フリット、ライカールトが1点ずつとオランダトリオのゴールでACミランは20年ぶりに欧州一に輝くのだが、試合そのもの以外にも、放送人にとっては印象深い裏話が合ったのだ。
当時の大会の放送は開催される国の放送局が、その試合の中継を担当していた。例えばイギリスでの決勝戦ならBBCが、ミラノならイタリア国営放送RAIなどが責任をもって放送権のある各国にホストとして国際中継を担当する仕組みだった。従って1989年バルセロナでのホストブロードキャスト担当は、スペインの国営放送局であるテレビエスパニョーラ(TVE)であった。
当時、トヨタカップの取材も兼ねて初めてのチャンピオンズリーグ決勝取材にバルセロナを訪れていた私は、初のビッグマッチを取材できるとあってやや興奮をしていたのを今でも覚えている。しかも夢のチームACミランを現地で観られるのを楽しみにしていたが、それはテレビを通じてフリットらのプレーを堪能したい欧州のファンにとっても同じことだったに違いない。そんなビッグゲームへの期待が膨らむ試合前日の記者会見で、
我々は信じられない状況を知ることになる。何と明日の試合のテレビ中継のホスト制作を担うTVEが午後21時から放送局としてストライキを打つ予定であり、20時キックオフの前半までは放送制作するが後半は制作しないという衝撃のものだった。すなわちストライキで、カメラマンも音声マンも持ち場を全て放棄するというのだ。
1年に一度の欧州一を決定するサッカーの試合をストライキの対象にするとは、大胆と言えばあまりに大胆だが、日本と違い欧州では鉄道や航空、タクシーのストライキなどは頻繁にあるにはある。
それでも、にわかに信じがたい発表だったが、そのあとのアナウンスも驚きだった。地元スペインのTVEが、国際信号のホストを担うことができないのなら、イタリア・ミラノから自身の所有するイタリアの放送局の中継車一式とクルーを急遽派遣する、とべルルスコーニ氏が表明したのだ。彼自身の放送チームとはメディアセットという新進の放送局だった。
どういった契約内容を交わしたかは知らないが、主催者のUEFA(欧州サッカー連盟)にとってはテレビ放送の危機であったから、この肩代わりを受け入れたのであろう。
経費やスタッフや機材の調達など、「とにかく我がACミランの欧州一に輝くだろうゲームをきちんとテレビ制作するのだ」というベルルスコーニの鶴の一声で、この緊急対応の決断がされたのだろう。
それでも果たして明日の試合にスタッフや機材は間に合うのか?
イタリアとスペインでは陸続きであるが、一昼夜かけてピレネー山脈を中継車は超えてバルセロナを目指さなくてはならない。その距離はおよそ725㎞の険しい道のりだったはずだ。
そして試合当日。
舞台となったバルセロナのカンプ・ノウスタジアムは9万7千人の大観衆を集めたが、その8割以上はミランサポーターであったと思う。
私は国際信号のモニターを横目で見ながら、放送関係者席で試合を見守っていた。
決勝ともなるとさすがにカメラの台数も多くスローリプレイも多彩に再生されている。もちろんリプレイに乗るときのアニメーションもロゴ付きでオシャレである。試合は前半早くもACミランのフリットが先制するといろいろな角度からリプレイでその得点をさらにショウアップしていく。続けてファンバステン、そして再びフリットと前半だけで3対0となったが、どれもがスーパーゴールであった。
そしていよいよ注目の後半が始まった。
国際信号が映し出されたモニターの画面が一瞬ブラックになり、数秒で画面が切り替わる。ボールプレーを中心に追いかける大事なメインカメラのサイズが先ほどよりややワイドになっている。明らかに前半の制作のやり方と違う。
制作体制が交代したのは明らかだった。
そして後半3分にライカールトとの連携から、ファンバステンのゴールが生まれる。あの放送がブラックになった時間にゴールが生まれなくて本当に良かったと思った。
ただし、その得点のスロー再生のアニメはなく、カット乗りという単純なやり方で、かつカメラ台数が少ないのだろう、別のアングルのスローは少なく、淡々とその後も放送は進行した。
ああ、やはりテレビエスパニョーラはストライキを決行したのだ。
ピレネー山脈を越えてきたべルルスコーニの中継車は間に合ったのだ、とその時に分かった。このようなビッグイベントでもストライキはやるのだと、同じ放送会社に勤める身として身につまされる思いだったが、そんな思いを吹き飛ばすように数々のスーパーゴールが生まれてACミランの見事な勝利がカンプノウから映像としても全世界に配信された。
自分のチームの勝利、欧州制覇をしかと届けるため、メディア王ベルルスコーニは自身の強みを最大限に発揮したと言えよう。
その後2017年まで31年間もオーナーに君臨したが、そうした剛腕ぶりはいたるところで報道され、専制君主のイメージしかなかった。
今年になって34年も前のスペインでの出来事を確かめるために旧知の元・欧州放送連合のスペイン人プロデュ―サーに連絡を取った。
引退した彼も放送人として悲しいこのストライキを覚えており、労働組合長にスト休止の電話交渉をしていた当事者だったそうである。そして彼からのメールによると、肩代わりしたイタリアの中継車にカメラは僅か2台しかなかったそうである。
そしてメールの最後には、自分はスポーツ放送史に残る信じられない出来事の証人だったと書いてあった。
いずれにせよ自分のチームの勝利、しかも欧州チャンピオン達成の瞬間をしかと届けるため、メディア王ベルルスコーニは自身の強みを最大限に発揮したと言えよう。中継車とテレビクルーごとスペインテレビ局の肩代わりをするとはこれもまた贅沢な話だ。
それにつけてもこのようなビッグイベントでも、というよりそういう大きな機会だからこそあえてTVEは労働ストを打ったのだろうが、スペインの国内経済情勢や放送局の労働環境の内情を推し量って少し複雑な心境ではあった。
実はテレビ局のストライキに関わる因縁話が私にもある。
この出来事から約10年後の2000年のプロ野球巨人軍の開幕戦に於いて日本テレビの労働組合はストライキを決行した。当時私はプロ野球中継のプロデューサーで番組制作の中心であったが、同時にまだ管理職前の組合員だった。会社に対する強い労働条件要求を求める中で最も効果的なのが当時まだ25%近い視聴率を誇る看板番組野球中継の生放送でストを打つことで、組合の春闘の最大戦略だった。当然のことながら中継のスタッフはみんな20代から40代前半の非管理職、すなわち非組合員であるからストライキで職場放棄すれば、生放送のスポーツ中継自体が成立しなくなるということだ。
TVEの様に組合が、強い交渉に臨むには、会社が困るような事態を作るしかなかったのだ。結局のところ会社側は非組合員で中継経験者と外部の制作スタッフをかき集めて、開幕戦は何とか無事に中継されたのである。
我々といえば、いつもと同じように開幕戦の長嶋監督や各所への挨拶やチームに恒例の手巻きすしの差し入れを済ませてから、本社に戻って非組合員の諸先輩方が制作する放送をモニターで寂しく見つめていたのを思い出す。
2月の宮崎キャンプイン取材から3月のオープン戦数試合の中継を経て、用意周到な放送準備をしてきたのに、大事な開幕戦の中継チャンスを失うことは悲しみしかなかった。
表現者たちにとっては、いきなり息ができなくなることに等しかったが、組合員である以上、納得せざるを得なかったのだ。
ドメスティックな放送であるし規模は違うかもしれないが、スペインの放送局の現場スタッフはあの時どんな思いで、名誉ある欧州一決定戦の国際信号制作を放棄したのであろうか。自分たちの労働条件を改善するために、やむなくストライキを打つしかなかったのであろうが、そのテレビ放送人としての無念に、私は思いを馳せた。
そして、日本テレビを開局させ初代社長に就任した正力松太郎氏のことを思い浮かべていた。
巨人軍を創設し、プロ野球の始祖として日本のメディア王とも呼ばれた正力松太郎オーナーは、平成の日本テレビの野球中継労働ストライキをどのように思ったであろうか。
育てた巨人というもの、そのテレビ放送こそ宝であるから、組合ストライキの交換条件に使われても仕方がないと思ったであろうか。
今なら日本テレビ社員を使わなくても外部のプロダクション演出チームに丸ごと発注できるような時代なので、こうした組合問題とスポーツ制作現場の課題はなくなったと言えよう。
それでもプロ野球開幕が楽しみな春が巡って来る度に、私はいつもこのエピソードを思い出してしまう。
そしてその後、ストライキと言えば放送局ではなくアスリート側が行なうことにも遭遇した。むしろこちらの方が大問題だった。
2004年9月18日、オリックスと近鉄の統合問題に端を発した球界再編を巡り、日本プロ野球が史上初のストライキに突入したのだ。12球団の維持を求める労組・日本プロ野球選手会と、日本プロ野球組織(NPB)の団体交渉が前日に決裂。18、19日の2日間にわたり、1軍12試合、2軍5試合が中止となった。
選手会代表の古田敦史選手が涙の記者会見をしたのを覚えているだろうか。
何とか解決をみたが、ファンの気持ちを思うとやるせない思いがあったのだろう。
なおアメリカのMLBでは過去に5回もストライキがあり、最悪だったのが1994年8月から始まったストライキである。チーム球団経営側は経営の利益に対する、契約する選手の年俸総額を、一定割合までとするという、サラリーキャップ制度の導入を図ろうとした事が原因であったが、このサラリーキャップ制度に選手会が強く反対をし、ストライキにまで発展した。
ストライキが始まると、そのままシーズン終了まで続き、ポストシーズンまでも中止となった挙句にシーズンオフも続くこう着状態となり1995年のシーズン開幕でも解決を見ることが出来ずにいた事態は、1995年4月25日に通年よりも一ヵ月遅れでシーズンの開幕にこぎ着けた。232日間にも及んだ史上最悪のストライキは、ファンを無視した行為として、これを教訓としたメジャーリーグでは、それ以降にストライキは実行されていない。大谷翔平の2桁勝利、2桁ホームラン達成のかかった試合がもしもストライキで中止になっていたらと想像するだけでぞっとする。
サッカー界でも、36年ぶりにワールドカップ・カタール大会出場を決めたカナダ代表が、選手の大会出場賞金分配に関して抗議のストライキによるパナマ代表戦との親善試合中止を決行したが、ファンからすると本当に複雑な心境にさせられる問題だと思う。
ストライキにはそれぞれ理由があり、生活のための賃金闘争はやむを得ないのかもしれないが、スポーツ大会運営や放送がストライキによって、ファンの楽しみを奪うような事態は、やはり悲しい。イタリア首相になっても辞めてからも、悪評が絶えなかったベルルスコーニ氏だが、1989年のACミランのケースだけは、世界中のサッカーファンにとってファインプレーだったのかもしれない。
注:現在ではチャンピオンズリーグなどのホスト映像制作は専門のプロダクションチームが契約し一括で、受注制作し、クオリティーの維持や準備などが一元化されている。
FIFAワールドカップ制作も同様で、HBSという会社組織が担当をしている。
ちなみにオリンピックはOBSという会社組織が全ての制作を請け負っている。
(追記)
2023年6月12日にベルルスコーニ氏は86歳で亡くなられた。色々な評価があった彼だが、間違いなくイタリアの生んだ歴史に残るメディア王であり、お騒がせな首相でもあった。個人的には、何よりACミランというと彼のことを思い出す。ご冥福をお祈りします。