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パリオリンピックの煌めき⑩ ~コンコルド広場に凝縮された祝祭感~

華麗な装飾の噴水でも有名な、コンコルド広場で展開された「アーバンプロジェクト」では4つのアーバンスポーツ競技会場が集結し、連日多くの人々が訪れた。

世界中のどこへ行っても、たいてい街の中には広場や公園がある。
大きさや、揃っている施設や遊具などまちまちだが、そこに人が自由に集うこと、大勢の笑顔が溢れていることにこそに意味がある。
そこでは多くの交流が生まれ、会話も弾む。
世界的にも美しい広場と称される広場は、人によって評価が分かれるが、いずれも素敵な場所であることには違いない。
私の好きな広場は、イタリア・ヴェネチアのサンマルコ広場、シエナのカンポ広場やベルギー・ブラッセルのグランプラス、そしてパリならヴォージュ広場などである。
さらにはモロッコ・マラケシュのジャマエルフナ広場で感じた不思議なエネルギーと喧騒も思い出深いが、誰にでも国内外問わず、それぞれ思い出の広場があるに違いない。

広場を意味するフォーラム(英語でforum) は、ラテン語に由来し、古代ローマ都市の公共広場を指していたのが起源と聞いた。
フォーラムとは、「集会所」や「討論の場」といった意味を持ち、ここに噴水や水場をつくって水が引かれ、人々はそこに集まり交流した。
 すなわち広場=広い場所とは、人々が集まる場所であり、一緒に何かを話し合う場所なのである。

その広場を利用して、パリオリンピックでは革命的な試みが行われた。
パリ2024大会組織委員会は、開催地として立候補した当初から、スアジアムとはひと味違う、都心環境の中でアーバンスポーツを開催したい意向を持っていた。
このアイデアは、コンコルド広場に特設アリーナとしてアーバンパークを設置するプランとして実現した。
コンセプトは、より都会的で一般に広く親しまれている環境に競技会場を持ち込み、人々にオリンピックの経験をより包括的なものにしようというものだ。
アスリートにとってもファンにとっても忘れられない体験と雰囲気を作り出し、かつてないユニークな交流の機会をも生みだすのが目的だった。
ちなみにコンコルドとはフランス語で「調和」という意味である。

コンコルド広場は、もともとフランス革命のときにルイ16世やマリーアントワネットがギロチン処刑された場所である。
約1300人がこの広場で首を落とされた悲しい歴史を持つ。
その革命から235年も経った今では、コンコルド広場はパリの観光名所の一つとして人気がある。
高さ33mのオベリスク、華麗な装飾が施された美しい噴水、凱旋門から一直線に伸びたシャンゼリゼ通りの終着点という見事なロケーション等が人々を魅了している。

そして当初のプラン通り、2024年夏のパリオリンピックでコンコルド広場は、アーバンプロジェクトと銘打った素敵なオリンピック広場と化した。
複数の競技会場を一か所に集中し、競技場に入れなくてもモニターで競技を観戦し、あるいは体験型のスポーツイベントなどが開催されたのだ。
オリンピックグッズを買い、ホットドッグをほおばり、無料の飲料水は汲み放題と、35度を超える日もあった暑いパリの一日を楽しめる空間となった。
そして多くの人が溢れかえることで、生き生きとした空間は輝きを放った。
実際、アーバンパークのコンセプトが人気を博したことを、チケットの売れ行きが物語っていた。
チケット2次販売の初日には、BMXフリースタイルとブレイキンの全カテゴリーのチケットが2時間足らずで売り切れとなったらしい。
そして連日多くの人がこのアーバンパークに足を運んだのだ。

もともと過去のオリンピックでも、メインスタジアムを中心に複数の競技会場を特定のエリアに集めて、そこにオリンピックパークと呼ばれる広場を展開することはあった。
シドニーなどはいまだにレガシーとしてその名前もエリアも残っているし、ロンドンは再開発エリアに展開したパークが今も再利用され、その地域が活性化しレガシーの見本とまで言われている。

ただ今回のパリで新しかったのは、都市型スポーツ=アーバンスポーツ4競技の会場をコンコルド広場一帯に集結し、このエリアへのアクセスチケットも販売したことだ。
四つの競技とは、スケートボード、3x3バスケットボール、ブレイキン、自転車・BMXフリースタイルである。
この4つの競技は日程が重なることなく開催されて、ほぼ毎日何かしらの競技が観戦できる仕組みだった。

チケット名は”コンコルドアーバンプロジェクト”。
それぞれ4つの競技会場内には入れなくとも、コンコルド広場で、大型モニターで一緒に観戦したり、お祭りのような雰囲気を味わえるようになっていた。
競技会場の観客の収容人数には限りがあるが、そこに集う楽しみを、より多くの人々に提供する考えは素晴らしかった。
実際に3x3バスケットボールの会場に入れなくても、ほぼ同じような感覚で観戦できたように感じられた。
何より、このエリアに足を踏み入れただけで、オリンピックに参加した高揚感に包まれたのだ。
私は2回ほど、このコンコルド広場にアクセスする機会を得た。
手に入れることが出来たチケットは、いずれもコンコルドアーバンプロジェクトと記載されており、私のはPlacement Libre=自由席となっていた。
各会場の中には入れないチケットであったが、広場には競技開始1時間ほど前から入場可能で、競技終了までずっとこの広場に滞在できる自由気ままなものだった。
確かに各競技会場の中に入れる観客数は5000人にも満たないかもしれないが、一日数万人の観客を受け入れる広場は、毎日活気を呈していた。

公式グッズショップには入場に行列こそあったが、さほど待つこともなく入れたし、喉が渇けば給水所でたっぷりの水を持参のプラスチックボトルに入れて、渇きをしのいだ。
少しお腹がすけばサンドイッチを頬張り、特設の遊戯エリアで、子供たちが興じる遊びのバスケットボールを眺めているだけで楽しかった。
オリンピックの五輪マークのモニュメント前で写真を撮れば、パリオリンピックのいい思い出にもなる。
初めて出逢った人に写真撮影を頼まれ、またこちらも頼んでポーズをとる。
「どこから来たの?」交流はそれだけ。
しかし「ありがとう」という感謝の言葉と、「楽しんでね!」の短い会話と笑顔が、広場のそこかしこに生まれた。
競技が始まれば、大型モニターを眺めるだけでなく、会場から直に伝わってくる大歓声をライブで直に感じることもできた。
そう、そこには祝祭の興奮と歓喜がすべて凝縮されていたように思う。

コンコルド広場のアーバンプロジェクトの一つ、3x3バスケットボール会場の雰囲気。競技場の外からでも特設大型モニターで観戦を自由に楽しむことが出来た。

オリンピックが終わり、約2週間の転換期間(トランジット)で、コンコルド広場はまた違った顔を見せてくれた。
オリンピックに用意した仮設競技会場は短期間のうちに見事に撤収された。使用された資材は、今後のイベントなどで再利用すると聞く。
仮設にはもちろん費用は掛かるが、過去のオリンピックのように(特にアテネ大会など)無駄な施設が荒廃して残るような失敗を回避できる。
そして今度は、競技会場ではなく、開会式のメイン会場となり世界中へメッセージを発信する場所となった。

凱旋門からおよそ1㎞と続くシャンゼリゼ通りを選手たちが入場行進した後、このコンコルド広場に辿り着く。
太陽がまだ沈み切らない美しいオレンジの世界に包まれたコンコルド広場で、パラリンピック開会式は始まった。
この開会式は「パラドックス(逆説) ディスコード(不和)からコンコルド(調和)へ」というテーマがあった。
包摂をうたいながら、いまだ障害者らへの偏見に満ちている社会で、スポーツや創造性を通じた融和を描いたという。

広場は本来、人々が集い、交流する日常的な世界に存在するものだ。
ただその広場が1年に一度、あるいは何十年、いや100年に1度、お祭りのための設えをして多くの人々がいつも以上に集うとしたら。
それを非日常的な特別なものとして、楽しむのもまた素晴らしいことだ。
今回のパリ・コンコルド広場にも、人の笑顔が集まる忘れがたい祝祭のエッセンスがぎっしりと詰まっていた。

東京2020大会では、オリンピックパークそのものは設定されていなかった。
1964年は駒沢オリンピックパークがあったが、2020大会では招致プランにパーク構想はなかった。
新しい国立競技場はシンボルにはなるが、その周辺の神宮外苑は運営に使用するエリア確保でいっぱいで、ファンゾーンなる人が集って楽しめる広場の創設は叶わなかった。
東京も美しい都市だと思う。
公園など憩いの場所は都心にも多くある。ただ人が集い、緊密な距離で交流する広場は数少ないと感じる。

東京オリンピックの運営準備をしていた頃、東京の景観をライブで24時間撮影するため街の中に放送カメラを設置するお願いに奔走していた。
皇居・二重橋にもカメラを設置するために宮内庁にも足を運んで何度も相談した。
その時ふと、皇居前広場の広大なスペースを何かに利用できないかとも思った。
何といっても東京の中心に位置し、競技会場である武道館などにも近く、銀座など繁華街からのアクセスも良い。
加えて広大な敷地を誇り、皇居周回マラソンランナーを多く見かけるこのエリアは、祝祭の広場に活用したらどんなに素敵だと個人的に感じたのだ。
何より皇居前広場の二重橋は、外国の方もよく訪れる人気観光スポットでもあり、東京のアイコンにもなるからだ。
ただカメラ一台置く交渉にも難儀したのも思いだす。皇居の周辺の様々な許可を取るのは至難の業であったことは正直に言おう。

また駒澤公園や代々木公園あたりを、1964年東京大会レガシーとしてオリンピックパークや広場として再利用する可能性があったかもしれない。
それぞれあくまで一例であるが、いずれにしても東京都のみならず国の行政の後押しがなければ、叶わない夢なのだ。
結果として、コロナ禍により広場に人々が集うことも、話し合い交流し、笑顔を交わしあうこともなかったので、評価もしようがないのだが、今回のパリをみて広場の再認識をした次第だ。
別に今回のパリと比較するのではない。
しかし、もし今後大都市でオリンピックのような大会が開催されたときに、多くの人が集う広場をどこに、どのように設置したら祝祭感を極められるのかに興味が湧いた。
一生に一度経験できるかどうかのイベントに集い、共に祝う場所の創生に心血を注ぐことは大事なことなのではないか。
東京オリンピックのレガシーの総括や反省、次回大型イベントへの提案などは、こうしたところから話をはじめてもいいのではないだろうか。

最近、自身の知見不足を恥じることを感じた出来事があった。
このコラムを読んでいただいた元・東京オリパラ組織委員会のスタッフの方から、情報をいただいたのである。
内容の概略は以下である。

2014年11月19日、建築家の故・磯崎新さん(2022年没)は、外国特派員協会である提案を発表していた。
「開会式などのセレモニーがおこなわれる場所と、実際の競技をおこなうスタジアム(新国立競技場)を同じにしようとしているが、問題だ」と指摘。
新国立競技場は「競技に特化した施設」にして、セレモニーは、二重橋前の広場で開くよう提案。
その理由について、磯崎さんは「アリーナ会場でのセレモニーは前世紀のフォーマット。それでやらなければいけない理由はない」と説明。
「21世紀の五輪を考える場合、10万人の閉ざされたスタジアムではなく、10億人がライブ中継で見るものと考えるのが常識だ」と述べ、テレビやネット中継をより意識したプランを重視するよう訴えた。
さらに磯崎さんは、意見書の中でも、「江戸城の堀、石垣、櫓を背景にして、競技場フィールドより広い舞台を前に立体的な桟敷を設ける。約12万人収容可能。50に分解できる。終了後、全国各県にオリンピック記念公園(競技場)をつくり分散移設。空中を飛翔するカメラをはじめ、あらゆる角度からの映像を全世界に流す」と広場を使ったプランを提案している。
会見では、「建築の問題だけというよりは、全世界に情報をつないでいくという大きな問題としてとらえるべきだ」と理念を語った。
(以上、磯崎新のニュース-1件 | 弁護士ドットコムニュース  から引用)
その後、彼の提案した「東京祝祭都市構想」の文献も読んでみたが、東京2020開会式の6年も前の大胆な意見は大変興味深いものだった。
開会式のみならず、皇居前広場におよそ100日間にわたる祝祭空間を創生し、様々なイベントを展開し人々がそこに集う。
しかし終わればそこに形としては何も残さない(仮設であり撤去する)という考え方は先進的なものだった。
残るべきは新たなる精神とでもいうのであろうか。
磯崎氏がいう皇居前広場の歴史的意味合いや空間としての定義など、専門的なことは私には理解が及ばない部分もある。
しかし、あの時皇居前広場で私が感じたのは、何も目的のない様なスペースでありながら、それでいて見事な黒松の樹々がもたらした空間の癒しである。
そして都心のど真ん中で、ただただ広いと実感した場所の放つ不思議なオーラを、今でも覚えていることだけは確かだ。





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