Essay

シリーズ・記憶の解凍⑲「1980年モスクワオリンピック」~ミーシャの涙を忘れたか~

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

1980年7月19日から8月3日まで開催されたモスクワオリンピックにおける、閉会式のラストシーン映像を見たことがあるだろうか?
スタジアムのバックスタンドに大きな人文字で現れたのは、クマのミーシャだ。
ミーシャは、大会のマスコットであったが、その大きな目からは涙が一筋こぼれた。

平和の祭典と呼ばれるオリンピックに、アメリカを筆頭に西側諸国、そして日本もボイコットして参加しなかった。
モスクワオリンピックは共産、社会主義国初のオリンピック開催であり、「政治とスポーツ」の問題が浮き彫りになった大会だった。
種目によっては、世界トップレベルの大会への参加に8年間の長い空白が生まれて、進歩を妨げたともいえる。
日本の選手でいえば、マラソン競技の瀬古利彦、柔道の山下泰裕などを筆頭に、出場すれば金メダルは間違いないだろうと言われた実力者が揃っていた。
その後の1984年大会でメダルを獲得したアスリートもいれば、そのまま全盛期を終えて、メダルに届かなかった、あるいは引退したアスリートもいた。
涙を流したのは、ミーシャだけではない。
そもそもボイコットした国々のアスリートは、4年間かけて努力した汗が報われる場所を失った。

1979年12月に当時のソビエト連邦(現:ロシア)が、アフガニスタンに軍事介入し、侵攻を開始した。
それを受けて当時のカーター・アメリカ大統領は1980年1月に、オリンピックのボイコットを宣言した。
それを受けて、西側諸国は揺れに揺れた。

4月に日本政府はボイコット方針を決めたが、日本オリンピック委員会(JOC)は何とか参加できないかと模索を続けた。
しかし最後は5月24日のJOC総会で、29対13をもって不参加が賛成多数となり、6月11日にJOCは正式に大会不参加を決定した。
結果的にボイコットした国は50に上ったが、西側諸国でもイギリス、フランス、イタリアなど欧州、オーストラリアほかは参加した。
ただそれらの参加国のアスリートたちは、国旗や国歌を使用しないで、開閉会式や表彰式では五輪旗と五輪賛歌を用いた。
すなわち国家としての参加ではなく、その国のスポーツの委員会が承認したアスリート集団によるオリンピック参加ということだったのだろう。
であれば、同じような考えで、日本も参加する道があったのではないか・・しかし時すでに遅かった。
アメリカ政府に追随した日本政府の方針に、オリンピックに関しては、本来なら最高の意思決定組織であるJOCは、結局異を唱えることは出来なかった。
日本でも、当時のニュース映像で何回も流れたが、レスリング高田、柔道山下などが「政治とスポーツとは切り離すべきだ」と主張して涙を流した。

賛否両論あった当時のボイコット問題だが、テレビ放送の世界にも影響が及んだ。
実は、今までNHKが保持していたオリンピックの放送権を、民放局のテレビ朝日(当時はNET=日本教育テレビ)が一局独占で獲得した。
独占番組編成での視聴率獲得や、局のイメージアップのために絶好の超大型スポーツソフトを得たテレビ朝日は、モスクワオリンピック放送準備のために多くのスタッフも新規採用した。
1977年全国放送のネットワークを再編し、新しい船出の号砲の一つであったはずだった。
制作や、技術スタッフもだが、アナウンサーも多く入社した。その一連の採用期では、古館一郎さん、南未希子さん、宮嶋泰子さんなど、後に大活躍された方々の名前がある。

いずれにしても日本が参加しないオリンピックに日本の視聴者は興味を失い、せっかくのテレビ朝日の野望とも思えたプランは成功したとは言えなかった。
事実、開会式の視聴率は史上最低の11.2%、競技も一桁大視聴率と、軒並み低かった。
何よりテレビ朝日は、放送編成枠も大幅に縮小したから、日本人は素直にこのオリンピックを楽しめなかった。
個人的にも、私は当時大学4年生、就職活動にも追われていて、日本の出場しないオリンピックをテレビで観ることはほとんどなかった。

日本もアメリカも出場しなかったオリンピックは、それでも無事に閉会式を迎えた。
閉会式では、ミーシャの着ぐるみを着た子供たちがマスゲームを披露した。
レフ・レシチェンコらが歌うデュエット曲「ダスヴィダーニャ、モスクワ! (さよなら、モスクワ!)」が流れる中、マスコットのミーシャが風船で打ち上げられ、空に打ち上げられて、森へ帰るミーシャの演出で大会を締めくくった。
このとき、スタジアムのバックスタンドにおいて、マスゲームの人文字プラカードで描かれたミーシャの左の眼から、涙が流れ落ちたというわけだ。
人文字でつくられたせいか、その涙は、極端に大きく、粗削りな作りで、ひどく大げさな感じに思えた。

涙の意味は、西側諸国ボイコットへの抗議という説もあったが、モスクワ大会組織委員会演出の真意は今になっても分からない。
それでも、あのミーシャの涙は、少なくとも日本のレスリング高田や柔道山下が悔しさをにじませた涙とは、全く異質なものであるに違いない。
それでも、あの閉会式でミーシャは間違いなく泣いていた。
歴史の事実として変えられない映像の記録とは、修正したり捏造したり一切できない分、酷でもある。
映像・・それはなかったものだと誰も否定できないからだ。

また閉会式では「ロサンゼルスで会いましょう」という文字も、電光掲示板には一切出なかった。
そして4年後、ソ連を中心とする東側諸国は、報復ともとれるロサンゼルスオリンピックのボイコットを遂行した。

ロシアオリンピックの閉会式も行われたルジニキスタジアムに、私は2度訪れたことがある。
ルジニキとは地名で、緑にあふれた自然公園の麓に広がるエリアである。モスクワの中心地から地下鉄でわずか20分以内とアクセスも最高だった。
2008年ヨーロッパチャンピオンズリーグ決勝と、2018年ロシアワールドカップの決勝戦と、いずれもサッカーの取材だった。
2008年はまだ、陸上トラックがあって、サッカーを観るにはピッチが遠い印象だった。
そして2018年ワールドカップに向けて、スタジアムは改修されサッカー専門スタジアムとなり、1980年の面影はだいぶん薄れていったようにも思う。
しかし、スタジアムにアクセスするときに感じた、広大な敷地の中に建つルジニキスタジアムは依然として、威風堂々としていた。
ここはかつてレーニンスタジアムと呼ばれていたが、1991年ソ連崩壊後、その名は消えた。
しかし今でも、巨大なレーニン像がスタジアムへのアクセスの目立つところに立っている。

共産主義国諸国の独裁者たちも、権力誇示や集会の場所とするために巨大スタジアムを建設するのが習わしだったように思う。
ロシア革命の指導者の名を冠したレーニンスタジアムが建設された1950年代のソ連では、「スターリン様式」と呼ばれる列柱を多用した重厚なデザインの全盛期で、レーニン・スタジアムもスターリン様式による建築物だった。
そして街中を見渡すと、これまた尖塔が重厚な、ユニークな建築スタイルの高いビルがいくつかそびえている。
それらすべてが、レーニン没後に旧ソ連の指導者となったスターリンの命によって建設されたものばかりである。
権威の象徴と呼んでもいいものばかりだろう。

2018年ワールドカップ・ロシア大会の決勝戦はルジニキスタジアムで開催された。欧米のスポンサー名が並ぶショップとレーニン像が同居していた。



ソビエト連邦時代に、初めて夏のオリンピックを開催した1980年以来、今はロシアとなったこの国は、冬のオリンピックをソチで開催した。
1980年から34年も経った、2014年ソチオリンピックの閉会式のラストシーンもまた印象的だった。
ミーシャの孫とされるホッキョクグマを真ん中にして、ユキヒョウ、ノウサギ、3匹が最後に現れた。
この愛らしい3匹の野生動物に愛称はなかったが、大会のマスコットたちで、閉会式の最後をリードするようだ。
中でもミーシャと同じクマの一種のホッキョクグマは、大会ショップでも一番人気だったからセンターを務めたのだろうか。

美しく静かな音楽が流れる中、ユキヒョウに促されるようにホッキョクグマが聖火の前に立つ。
そしてスタジアムビジョンには、モスクワオリンピック閉会式で、涙を流したあのミーシャが、空へ飛んでいく当時の映像が流れた。

そのミーシャの映像は、わずか3秒ほどだったから認識するのに、私は一瞬戸惑った。
そしてむしろ問題は、その映像時間尺ではなく、世界中では34年前のことなど忘れてしまったか、知らない世代の視聴者がほとんどであったのではないかということだ。
そしてその映像は、過去のミーシャから現在のホッキョクグマに、ふうっとだぶらせるような、柔らかい画面転換手法(映像専門用語でオーバーラップ、ディゾルブという)で切り替わる。
オーバーラップは、昔から映画やドラマでも、時間の経過を表す場面転換時に使うことが多い。

そして長い、長い時間をかけて、ホッキョクグマはスタジアムに設けられた聖火台の聖火を、白い息をハーッと吹きかけて消した。
そしてホッキョクグマが青い雫のような、一筋の涙を左の眼から流した。
青い涙の雫は、おそらくCG(コンピューターグラフィック)での合成だろう、たいそう無機質な印象を与えた。
それでも10秒以上かけた、ゆっくりと心に刻むような映像であった。
「ダスヴィダーニャ(さようなら)私たちの可愛いミーシャ」の調べの中、同時にスタジアム外に設置された聖火台の聖火も消灯された。

感動的な場面であったはずだが、私にはなぜかちょっとした違和感があった。
どこかで見たような演出に、少しびっくりした
またしても可愛らしいクマのマスコットが涙する。しかも、かつてのミーシャと同じように左の眼から。
その演出自体は決して嫌悪感はなかった。その動物の愛くるしい顔から、頬を伝わる涙の映像自体は美しかった。
しかし、34年経っても変わらない物語。変わらない世界・・。
旧ソ連から続くロシアのやり方には、何もかも変化がないような不思議な気がした。

私にとって大きく違ったのは、モスクワの閉会式は大学生でテレビで観たが、ソチはテレビ放送の取材者として現場にいたことだ。
大会自体は、日本勢もフィギアスケートで19歳の羽生結弦が金メダル、ジャンプで葛西紀明が41歳にして銀メダル、トリプルアクセルの申し子・浅田真央がSPで転倒しながらもフリーで素晴らしい演技を見せたことなど、数えきれない冬のドラマがあった。
大会はホスピタリティーもよく、滞在中に放送関係者としてはストレスを感じることはなく、いいオリンピックだったと感じていた。

それでも閉会式のシーンには考えさせられた。
何より、ロシアはこのオリンピックのラストを飾る場面で、何をメッセージとして発信したかったのだろうか。
大会が終了して、祭典が終わるのは寂しいという、単なる別れの涙ではあるまい。
まさか、ミーシャの涙をロシアは忘れていないという意味なのか。
私にはよく理解できないまま、冬季ソチオリンピックの17日間は幕を閉じた。

ソチオリンピックが終了してまもなく、ロシアはクリミア半島に侵攻した。
閉会式からまだ1週間も経っていなかった。
これから同じソチでパラリンピックが始まろうというのに、プーチンは軍事行動を強行した。

1994年にIOCが提唱し、採択されたオリンピック休戦というものがある。
それは、オリンピック開幕7日前から、パラリンピック閉幕の7日後までの期間で、世界中のあらゆる戦争を休戦しましょうというものである。
計算すると、およそ50日間に及ぶ、平和への呼びかけだ。
どこまで強制力があるかは正直に疑問だが、国際連合決議として具体化されたものだ。
自国開催の大会においても、この休戦ルールを破ることで、開催国の名誉にまで泥を塗ったと言えよう。
かつて2008年夏季北京オリンピックの、なんと開会式の日に、ロシアは隣国ジョージアと戦闘を開始した前科もあった。

そして記憶に新しいところで、2022年冬季北京大会ではオリンピック閉幕後からの休戦期間中に、ロシアはウクライナに攻撃を開始し、現在の泥沼の戦争が始まっていまだに終わらない。
パラリンピック開催までの約2週間も当然、休戦協定のはずだった。
ロシアがオリンピック休戦協定を破ったのは、これでなんと3回目である。
そして2024年の現在、ロシアとウクライナはもう2年に及ぶ戦争を続けている。

戦争のない世界、お互いが憎しみを超えて、一堂に集う平和の祭典を、誰よりも望んでいたのは1980年のモスクワ市民ではなかったか。
誰もあの時のミーシャの涙の意味を公式に伝えてはいないが、閉会式の視聴者の一人であった私には、こう伝わった。
「悲しいよ。平和の祭典に来なかった国がいっぱいある。スポーツは政治に利用されてはならない。理由はともあれ、悲しいよ」と。
当時のソ連側の、全く身勝手なアフガニスタン侵攻だったかもしれないが、ミーシャは残念だったと言いたかったのだと、当時の私は解釈した。
アフガニスタンがどこに位置するかもきちんと知らない、ソ連の政治的な動きなども詳細には把握していなかった。
政治とスポーツは別物なのだ。だから参加すればよかったのに。
大学生の私はその程度にしか、このボイコットに対する感想を持ち合わせていなかったと正直に白状しよう。

ロシアは、あのミーシャの涙を忘れたのか。
現在のロシアの大統領プーチンは、あの時どこにいて、何をしていたのだろうか。
そして今は何を考えて、犠牲を生み出してまで、戦争行動を引き起こしているのだろうか。

ロシア、ウクライナの戦争は、百歩譲って、それぞれの大義名分や主張はあるにしても、とにかく罪のない人までが犠牲になっているのは確かだ。
やはりロシアの戦争犯罪を訴える人が圧倒的に多いのは事実だ。
そして双方が公開する戦争の映像は、言い分が異なっていても、やはり一般市民までもが攻撃され、命を失った様子が記録されている。
歴史の事実として変えられない映像の記録とは、酷なものである。
いや、そのような、あってはならない映像記録を生み出してしまう戦争こそを、今すぐやめなくてはならない。

今の私にはよくわかる。
涙を流すべきなのは、オリンピックスタジアムに姿を現したマスコットたちではなかったはずだ。
今でも、多くの人々が世界中のどこかで泣いている。

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