Essay

シリーズ・記憶の解凍⑰「1996年アトランタオリンピック」~連続ドラマ”日本サッカーの奇跡”の最終回はいつか?~(前編)

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

スポーツの世界では、いくつかの奇跡と呼ばれる出来事がある。
ありとあらゆる競技の中で、歴史的にも実力的にも、とてもかなわないであろう相手を撃破した時に、人はそれを奇跡と呼ぶ。
サッカーの世界でもそんな奇跡のシーンがかつてあった。
いまなお人々の記憶に残り、世代を超えて継承されるドラマの一つ、「マイアミの奇跡」だ。

1996年7月21日(現地時間)、アトランタオリンピックにおいて日本代表五輪代表が、あのブラジルを1対0と撃破した。
会場になったのは、アメリカ・マイアミのアメリカンフットボール球技場オレンジボウルだった。
ちなみに、サッカー競技は試合数も多く、開会式前からグループ予選が始まったり、開催場所も開催都市近隣の別の都市で行われる。
試合日と休息期間の関係から、複数スタジアを用意するのは、16日間というオリンピック期間中に決勝戦まで終了するためには仕方がないのだ。
いずれにしてもアトランタから960㎞も離れたマイアミで、日本は王国を打ち破る歴史的快挙を成し遂げた。

確かに1992年バルセロナ大会以降、日本にもプロができたので、オリンピックに参加するチームはいわゆるA代表、トップチームと区別されるようになった。
さらにIOCは1992年からオリンピックにプロ参加を開放した。
しかしFIFA(国際サッカー連盟)は、自身が運営するワールドカップとの完全差別化を図るために、プロの参加は容認しながらも、基本は23歳以下の選手構成のU-23五輪代表チームというカテゴリーでの参加ルールを決定した。
それでもFIFAは、チームの戦力補強のために、23歳以上(オーバーエイジ枠)の選手を3名まで登録できるルールにしている。

アトランタ五輪代表チームには、前園聖清、城彰二、中田英寿、川口能活ら有望な選手がそろっていた。
メキシコ大会で、銅メダルを獲得して以来28年ぶりに五輪に出場した日本はグループDに入り、初戦は南米代表のブラジル、2戦目はアフリカ代表のナイジェリア、3戦目はヨーロッパ代表のハンガリーと対戦することになった。

ブラジルは1994年ワールドカップで史上初の4回目の優勝を成し遂げた一方、当時はまだオリンピックでの金メダル獲得がなかった。
当時A代表監督のマリオ・ザガロが五輪代表の監督も兼任し、正規の23歳以下選手としてロベルト・カルロス、ジュニーニョ・パウリスタといったすでにA代表で活躍している選手を揃え、かつスーパーサブとして若きあのロナウドもいたのだ。
そして、この大会から認められたオーバーエイジ枠に、A代表のストライカーであるベベット、リバウド、アウダイールを加入させ優勝候補の大本命だった。
ブラジルは本気で金メダルを狙いにいっていた。勲章を一つでも増やすために。

一方、日本は西野朗監督が1994年から積み上げてきたチームワークとコンビネーションを重視する意向で、オーバーエイジ枠を使用しなかった。
当時のA代表経験者は前園正聖と城彰二の2人のみだった。
初戦が強豪ブラジル戦ということもあって、とにかく負けるにしても、グループリーグ戦の得点差を意識して、ブラジルには最少失点で乗り切るべきという意見が占めていた。
つまり、勝ってこないが、少しでも2戦目以降の試合に影響がないように大量失点は避けるべきという消極的で、かつ現実的なプランが想定された。

試合は、戦前の予想通り、前半からブラジルが日本を圧倒。
ロベルトカルロスの強烈なFKも、GK川口能活は落ち着いてキャッチした。
綿密なスカウティングにより、セットプレーへの対応について日本は研究を重ねてきた成果が実ったとも言えた。
0対0のまま、迎えた後半、1994年ワールドカップで活躍したベベットのシュートも決まらない。
ブラジルは、後に怪物とまで呼ばれる素質溢れるストライカーである若きロナウドを投入して得点を狙うが、ゴールには結びつかない。

そして後半27分、日本にチャンスが巡ってきた。
左サイドの路木が、ブラジルのディフェンスラインとGKの間のスペースを目掛け、山なりのクロスボールをフィードした。
そのボールを狙って城彰二がゴール前に走り込むと、飛び出したブラジルGKとCBアウダイールが激突、ゴールに向かって転がったボールを走り込んだ伊藤輝悦が押し込んだ。
VTRで何度見ても、ブラジルのミスによる幸運にも見えたが、ブラジルCBの背後のスペースを見事に突いた得点であった。
そして日本ではこの映像が今まで何回流れたことだろう。
試合は1対0で日本が勝利し、「マイアミの奇跡」が完結した。
ブラジルのシュートは28本、日本はわずか4本だった。しかしサッカーはシュート数で勝負は決まらない。

ちなみに当時の試合映像は、国際映像以外に、日本の放送局でプールを組んで録画のカメラで撮影、保存された。
プールとは、同じ条件でスタッフなど人とカメラ機材を出して撮影し、それをプールした局全体の共有財産にするものだ。
この時は、NHKを除く民放5局が参加し、それぞれのカメラの役割を決めて臨んだ。
例えば、日本テレビは前園だけ、TBSは川口だけ、フジテレビは城だけを追いかけておくというもので、奇跡の勝利のホイッスルの瞬間の日本人選手たちの歓喜の表情が、数多くアーカイブとして残された。

それでも同時多発的に起きる、それぞれの選手たち、監督、コーチ、観客の歓喜の瞬間を残すことには限りがあるのは事実だ。
そしてマイアミの奇跡の映像は、いつでもテレビ局の倉庫から引っ張り出してきて、現在に蘇らせることが出来るから幸せだ。
(ただし、オリンピック映像は権利関係から、自分たちが撮影したものでも使用に様々な制限があり、使用料も発生することが多い)

それでも日本は、2戦目のナイジェリアに0対2と敗れて、3戦目のハンガリーは3対2と勝利したものの、3試合の得失点差で、グループリーグ敗退したのだから、大会全体を通じては非常に残念だった。

日本サッカーにおけるオリンピックやワールドカップを、”日本サッカーの奇跡”という連続ドラマの一つとして見ていくと、以下のような歴史が見えてくる。
連続ドラマと言っても、毎回定期的に放送されるドラマとは違って、変則的にめぐってくるスペシャルドラマなのかもしれないが。
それでもこのドラマの主人公たちは、絶え間なく努力を続けて虎視眈々と、出番を待っている。

ドラマのプロローグは、1936年8月4日、ベルリンオリンピックにおける「ベルリンの奇跡」だ。

オリンピックに初参加したサッカー日本代表は、優勝候補のスウェーデンを破り、ヨーロッパ中を驚愕させた。
おそらくアジアの国の一つが、サッカーの本場である欧州のチームを打ち負かすなどとは、当時誰も想像できなかったに違いない。
想像もつかないといえば、日本を旅だった船は10日以上もかけて欧州にたどり着いた時代そのものでもある。
そしてオリンピック終了後まもなく、世界は第2次世界大戦がはじまり、日本もまた戦争へと突入していく悲しい時代を迎える。

前半は0対2という試合を、3対2で逆転したが、その当時の映像を、私個人はただの一度も見たことがない。
松永行さんの決勝点は、GKの股を抜くシュートだったと文献で読んだ。88年前の股抜き?凄いことだ。
実は、松永さんはつま先で芝を蹴ってしまう、いわゆるミスキックだったらしい。
だからGKのセーブのタイミングがずれて、両足の間を通されるシュートを許したのだそうだ。
そのフィルム映像が残っているということだが、いつか見てみたい。

フィルム映像自体どこかに残されていると聞いた。しかし、もちろんテレビ放送など全くない時代には、試合の全体映像はアーカイブに残っていないはずだ。
だから、情報を集めるには当時の関係者の証言や、短い白黒フィルム映像と、わずかに残された数枚の白黒写真だけであろう。
後のすべては言い伝え伝説といっていいだろう。

試合のフィルム映像を見たことがある方の話によれば、日本が逆転したその瞬間、観客席は揺れて、誰もが拳を突き上げて歓声を上げたという。
またフィルムの中の日本人選手たちは、飛ぶように右へ、左へ画面を横切っていて、まるで風の様だったとさえ表現した。
おそらく80年以上も前の昭和初期のフィルムは画質も荒く、風化してくとフィルムは劣化して、画面が飛んでしまうことが原因だとは思う。

それでも風のごとくピッチを駆けて、強敵スウェーデンを倒した日本選手たちの姿が目に浮かぶようだ。
試合終了後は、6000人もの観客がピッチに降りてきて、日本選手を讃えたという。
いずれにせよ、1946年ベルリンでの奇跡の勝利が、当時貴重な、わずかなフィルムに辛うじて残されたのは、これまた奇跡のようにも思う。

実は、四年後の1940年は東京でのオリンピック開催が予定されていた。
しかし第二次世界大戦のため中止となり、(東京大会中止という公式な記録は一切ないが)日本代表選手四人も戦禍に巻き込まれ死亡した。
同点ゴールを決めた右近徳太郎さん、逆転ゴールを決めた松永行さんは前線の異国の島で、戦死した。
キャプテンの竹内悌三さんはシベリア抑留中に死去、スウェーデン戦では控えメンバーだった高橋豊二さんも軍事訓練中に事故死した。
もはや奇跡の試合の様子をうかがうチャンスさえ失われた。
そして優れた人材を失った日本サッカー界は戦後、長く低迷を続けることになる。

竹内悌三さんの娘は、東京タワーのライトアップなどで世界的にも知られる、著名な照明デザイナーの石井幹子さんである。
東日本大震災から1か月後の4月に東京タワーに灯した「GANBARO NIPPON」は悲しみの人々に光を与えた。
なでしこジャパンが世界一を賭けて戦うFIFA女子ワールドカップ決勝戦の前には、青と白のダイヤモンドヴェールの光で、日本で応援する人たちを優しく包んだ。

父は、彼女が小学生の時にシベリアのアムール州第20収容所で病死した。
父が出征する時に彼女の手をしっかりと握ってくれた手のぬくもりだけは忘れたことはない。
いつもどこかで父がそばにいて見守ってくれると感じて、長く生きてきたともいう。
彼女は、父も訪れたベルリンで2011年に開催された、日独交流150周年記念イベントの光のチーフデザイナーとして参加した。
テーマは「平和」だった。
運命の糸で結ばれていた父娘の物語は、改めて無意味な戦争の悲惨さを思い起こさせる。

平和であってこそのサッカー、スポーツ、そしてオリンピックなのだと考えさせられた。
実際に1940年東京オリンピックは幻に終わり、何より数名のアスリートの命まで奪われた時代を、私は呪った。

1936年当時を知る由もない私は、こうした史実をすべて「ベルリンの奇跡 日本サッカー煌きの一瞬」
(竹ノ内響介著/賀川浩監修・東京新聞出版局)から学んだ。
まさしく”日本サッカーの奇跡”の第一話であった。

以下、(後編)へ続く

日本サッカー協会創立100周年記念の際に作成された、日本代表チームのレプリカユニフォーム。1936年ベルリンオリンピック時のカラーとデザインを再現している。

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