Essay

シリーズ・記憶の解凍⑭「1988年ソウルオリンピック」~背広を着た長嶋茂雄さんとの16日間~

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

1964年東京に次ぐアジアでのオリンピックは、韓国の首都ソウルで、1988年9月17日から10月2日まで16日間にわたって開催された。
韓国語では88の数字はパルパルと呼ぶが、韓国では、そのオリンピックを回顧する場合”あのパルパル”と呼んで懐かしむ事が多いと、2002年日韓ワールドカップ時のソウルで聞いたことがある。
1988年当時私も、パルパルという言葉がリズミカルで耳に心地よい響きがしたのを思い出した。

1984年ロス大会から日本におけるオリンピック放送は、NHKのみならず民放も番組編成枠を増やし、ニュース報道もますます過熱していった時期である。
ましてやソウルと日本の時差はわずか1時間であり、日本では大変視聴しやすい条件が、さらに放送メディアを駆り立てた。
新聞や雑誌は、即日性に欠けるうえに、現場の雰囲気は文字だけではなかなか伝わらない。
テレビは各局競うように現地に大勢のスタッフを送り、アナウンサーのみならずキャスターも派遣して、臨場感ある報道を目指していた。
日本テレビがソウルオリンピックのスペシャルレポーターをお願いしたのが長嶋茂雄さんである。
日本の野球界が生んだスーパースターの知名度、人気は、引退してもなお抜群だった。
1974年に選手を引退し、あの有名な「わが巨人軍は永久に不滅です!」と叫んだ引退セレモニーはあまりにも有名だ。
その年に巨人の監督に就任するも、初年度最下位のスタート、その後2度の優勝を果たすが、1980年のシーズン終了後に辞任し、事実上の解雇と言われた。

長嶋さんは、それからユニフォームをしばし脱いで、いわゆる浪人生活を開始した。
野球のみならず、人生の充電をするかのように、長嶋さんはユニフォームの代わりに、背広を着て世界を駆け巡った。
1987年に数回放送された日本テレビ系「長嶋茂雄、世界を駆ける」では、アフリカで乗っていたジープが、象に追いかけられたりもした。
読売新聞社との深い関係から日本テレビを中心とした活動が多かったが、オリンピックには大変興味を持っており、日本テレビ側も3大会に渡りスペシャルレポーターをお願いした。
まずは1984年ロス大会で、民放全体の番組となる開会式のゲストを中心に色々な競技を取材し、陸上男子100mのカールルイスの金メダルもスタジアムでしっかりと目に焼き付けた。
そして1988年ソウル大会、1992年バルセロナ大会とオリンピックを現地で経験し、長嶋さんなりのスポーツに対する考え方や、アスリートの情熱、苦労を一般視聴者にわかりやすく伝えてくれたと思う。
野球のみならず、スポーツをこよなく愛しており、心から感動したり興奮する様をストレートに言葉で表現されるのが魅力的だった。
「ズバーンと」「ビシっと」といった得意の擬音語や、「いわゆるスーパーな存在ですね」「今のクイックな動きがね」という長嶋流英単語ミックスの表現も、むしろ内容がよく伝わる感じになるのは不思議だった。
1992年バルセロナオリンピックの現場で、柔道・古賀稔彦の金メダルや、女子マラソン有森裕子の銀メダルなどを見届けた後、13年ぶりに巨人軍監督に復帰。
1981年から1992年まで11年という、長い長い浪人生活を送った”背広を着た長嶋茂雄さん”であった。

1988年ソウルでの取材活動でも、長嶋さんは精力的だった。
色々な現場に出向いてもらい、一流アスリートのインタビューもお願いした。
オリンピックには若いころから大変興味を持っていたと聞いた。
1964年オリンピック時は、報知新聞の企画で取材活動も頼まれて、いくつかの現場を実際に経験したそうだ。
日の丸を背負って戦う日本選手の思いも、外国人選手の素晴らしいパフォーマンスにも魅せられたと聞かされて、オリンピックが大好きなのが伝わってきた。
ちなみに1965年に結婚した亜希子夫人は、1964年東京オリンピックのコンパニオンで活躍した方で、オリンピックには強い縁がある長嶋さんだった。

私は、スポーツ局のディレクターとして、ソウルオリンピック取材にあたった。
自身にとっては初の夏季オリンピック現地行きであったが、大会期間中は主に長嶋さん付きとして、一緒に濃密な16日間を過ごさせてもらった。
そこでは長嶋茂雄の人間力というものを、間近に感じる貴重な体験をした。
それは、人や物事への旺盛な好奇心であり、見守る観察眼も鋭いといったことだ。
伝える側としてのユニークな表現力と語彙の面白さも持ち合わせている。
男子100m決勝前のカール・ルイスとベン・ジョンソンの一騎打ちの前に、勝負の行方を語ってもらうと、こうなる。
「いわゆる一つの、何かね、ルイス的な独特の準備というものがあるんでしょうね。いざ本番になれば、こうバーッとね勝負するというようなね。一方のベンはもうマッスル勝負で、グーンという加速で」
当時取材をしていた私には、とてもニュアンスが伝わってきた。
つまりはスポーツへのリスペクトはもちろんだが、勝負も人間模様も面白がる。
本職の放送プロでもないのに、こちらテレビ制作者の意図を汲んで対象人物に迫る能力にも舌を巻いた。こちらが渡した情報や、自ら得た知識をうまく吸収して相手の本音を聞き出す。これらは人間への強い興味から生み出されたのだろう。
そして何よりスポーツが大好き、となればアスリートも大好きなのだろう。

そして周りへの気遣いも、優しさもあり、当時31歳だった若造のディレクターにも「取材が多くて肩が凝ってるんじゃない?」とロケバスで移動中に、後ろの席から私の肩を真顔でもんできたことまであったから、恐れ多かった。
とてもじゃないが、あのスーパースターにそんなことと、すぐに固辞したのは言うまでもない。
そしてスタッフ全員が感じたことだが、とにかく長嶋さんはいつも明るく、楽しくて、みんなを元気にさせてくれた。

開幕前に、選手村を取材中の時だ。カールルイスと偶然出会った。
長嶋さんは「ヘイ、カール」と呼びかけ、そしてダッと駆け寄り、グッと固い握手を交わした。
1984年ロスの現場で観たルイスに魅入られた長嶋さんは、その後もルイス取材などでアメリカにも足を運んでいたから旧知の仲だった。
一流は一流を知る、を地でいく2人の関係は1991年東京の世界陸上にも繋がっていく。
100mを世界新記録で優勝したレース直後に、長嶋さんがスタンドから呼びかけた、「カール、カール、カーール」は以前からの親交の深さから出てきたものだったのである。

ソウルの取材では、1991年世界陸上の独占中継を控えていたこともあり、カールルイスのみならず、優勝したはずだったベン・ジョンソン、F・ジョイナーのインタビュアーとしても活躍してもらった。ベンの独占インタビューは金メダル獲得の翌日、まだドーピングでの剥奪前のことだったから、大いに盛り上がった。
あのカールを打ち破ったベンの偉大さを、長嶋さんも称賛していただけに、不正使用発覚には、本当に驚いていたのも思い出す。

野球は公開競技として開催され、当時、野球はまだプロの参加が認められていなかった。
日本も参加し銀メダルを獲得したが、野茂英雄(当時、新日鉄堺)、古田敦也(トヨタ自動車)、野村謙二郎(駒澤大学)ら、後にプロで大活躍した選手を揃えていた。
さすがに長嶋さんは野球の取材ともなれば、いつも以上に嬉しそうに現場に向かったことを覚えている。
そして野球がオリンピックの正式競技に採用されることを、大変楽しみにもしていた。

取材は連日続き、柔道・斎藤仁、レスリング小林孝至、佐藤満の金メダルも見届けるなど、オリンピックの魅力をレポーターとして伝えた日々は駆け足で流れていった。

中でも印象深いのは、背泳ぎ100mで金メダルを獲得した鈴木大地へのレース後インタビューのエピソードである。
バサロという、スタートから潜水してドルフィンキックのみで進む泳法を訓練してきた鈴木大地は、決勝3人のバサロの応酬に勝って、大接戦の勝負を制した。栄光の金メダルを獲得した後、おそらく日本の放送局全体の代表インタビューはプールサイドで済ませたであろう鈴木は、競技規則通りドーピングルーム(薬物などの不正使用があったかどうかをチェックするため、採尿するための隔離部屋)に向かい、採尿をしたうえで結果を待っていたようだ。
あの時長嶋さんは、私よりも速足で、すいすいとミックスゾーン(選手とメディアがインタビューなど取材する公式の場)を横切っていったので、戸惑いながらついていった覚えがある。
そしてふと、の先にあるドーピングルームを覗いて、待機する鈴木を見つけた。
「大地君、大地君、金メダルおめでとう!」
そう言いながらドーピングルームに近寄る長嶋さんを制するように、鈴木が廊下の方に出てきた。
長嶋さんをアテンドしていた私は予想もしていない事態に慌てて、取材技術クルーにカメラを手持ちでスタンバイするよう指示し、長嶋さんにはインタビュー用のハンドマイクを急遽手渡したのだ。
千葉の同郷ということもあって、鈴木も長嶋さんとはもともと気心も知れていたようである。
いきなり始まった、明るく楽しい金メダリストの独占インタビューは、短いながらも成功した。
金メダルを心から祝福する長嶋さんの気持ちが強く伝わってきた。
あの時、長嶋さんは純粋に目標を達成した鈴木をすぐにでも讃えて、労をねぎらい、話をしたかっただけなのだ。

いつもはピンマイクで話す長嶋さんが初めてハンドマイクでインタビューをしたので、最初はマイクさばきが逆になってしまった。
つまりおめでとうと言いながら長嶋さんがマイクを鈴木に差出し、彼が答える時に、逆に自分の方にマイクを持ってくるので、音がうまく拾えないのである。カメラの下でうずくまりながらスタンバイした私は、必死に手振りで、逆ですよとサインを送り続けて、なんとかうまくいった。そして日テレの独占インタビューとなったことに、いささか興奮を覚えたのも事実だった。

実は私には、このタイミングでのインタビューは異例なことだと、うすうす分かっていたが、もうすべてが止まらなかった。
そもそも聞き手が長嶋さんでなければ、アスリート自らが近寄ってはくれないものだろう。
実はドーピング検査は今でも、第三者が仕込んだ、誰か他の人の尿をアスリートに渡したりする不正がないように、ミックスゾーンでのインタビュー時にはシャペロンという見張り人が、ずっとメディア関係者ほかを監視している。
ドーピング結果が出る前に、第三者がアスリートの身体に触れたり、不必要なコンタクトをすると、何か不正な動きがあるとみなされる危険性もあったというわけだ。ルールとしても、大会運営上でも何事もなくよかったが、長嶋さんはどこへでも行ける顔パス的なオーラがあったことは否めない。
まずドーピングルームの前にいた地元韓国人のスタッフが、きょとんとしていて制止すらなかった。また1980年代のオリンピック大会運営は現在と違い、鷹揚であったともいえた。

実は、このエピソードについて鈴木大地さん自身が、2018年放送の日本テレビ系「82歳、長嶋茂雄の今」に出演し、金メダル獲得の裏側にあった秘話を明かしたのだ。五輪前に長嶋さんが鈴木をインタビューした際に、鈴木は金メダルを狙うと言葉にしなかった。しかしインタビュー後に長嶋さんから「プレッシャーを受けられる立場に感謝しろ」との言葉をもらったことを明かした。それ以来「金メダルを狙う」と公言するようになったという。当時の長嶋さんの言葉を振り返り「特定の人間しか味わうことができない、ある意味特権であって、しかもそれをポジティブに受け止めて、それを力にしていく」と当時を振り返った。

さらに金メダル獲得後にドーピング検査に行っていた時に、長嶋さんがそのエリアにおめでとうって入って来た。ドーピングエリアは関係者以外の立入禁止だからまずいので、自分が逆に検査室を出て、ミックスゾーンに戻って取材を受けたというエピソードを披露した。さらに普通はドーピングエリアに入ってくるまでに検問があるが、そこをどうやってくぐり抜けてきたんだろうと振り返ったから、私の記憶の解凍はほぼあっていたようだ。
鈴木大地さんが初代スポーツ庁長官になってからお仕事で一緒になる機会があった。長嶋さんの件を尋ねると、「いやあ金メダルはく奪されなくてよかったですよ」と笑いながら語ってくれた。

1988年のそのような微笑ましいエピソードの時代を経て、1993年、背広の長嶋さんはついに再びユニフォームに着替えた。
その年に開幕したJリーグ人気に野球が押されるような時代に、救世主のように巨人軍監督に復帰した。その後1996年と2000年の優勝に輝いた。
96年は、中日との最終試合同率首位決戦に勝利し、メークミラクルと呼び、2000年は優勝を掲げ、その強力打線をミレニアム打線と命名した。日本シリーズのON(王・長嶋監督)決戦も制したのち、2002年に監督を勇退した。

その長嶋さんに、オリンピックに出場参加する機会がやってきた。
それは2004年アテネ大会にオールプロ選手を揃えた日本代表チームを監督として率いるためだった。
2000年シドニー大会ではアマ・プロ混成で臨んだが、結果は4位と振るわなかった。
今度こそと、長嶋ジャパンは金メダルを狙っていた。長嶋さん自身が金メダル獲得を熱望していたように思う。
しかし大会直前に脳梗塞で倒れて、アテネに行くことは叶わず、監督代行として中畑清ヘッドコーチがアテネで戦った。
結果は辛うじて銅メダルだったが、病に倒れた長嶋さんに金メダルを捧げることは出来なかった。
何より長嶋さんがオリンピックに参加してメダルを目指す戦いに行けなかったことが、何より悔しかったと後に聞いた。

長嶋さんが病に倒れた2004年から17年が経った2021年。
コロナ禍で1年延期になった東京オリンピックが開催された。
新しくなった国立競技場での開会式の聖火ランナーの一人に長嶋さんがいた。
柔道の野村忠宏さん、レスリングの吉田沙保里さんという五輪3連覇ペアから聖火を受け、王貞治さん、松井秀喜さんと、続く医療従事者へ聖火を渡した。その瞬間、長嶋さんが笑顔になったのはマスク越しにでもわかった。

実は2018年に胆石を患い、再び入院するなど体調は思わしくなかったが、大会1年延期も幸いして、見事に回復したうえでの聖火ランナーだったと聞いた。そこに至るまでの約1年半のリハビリもまた厳しいものだったらしい。
絶対にやり遂げるんだという強い信念、選ばれた人間の使命を全うしようという、執念の様な努力には感服するしかない。
コロナ禍という苦しい状況の中でこそ、自分が自国開催のオリンピックに直接かかわることの意義、アスリートを少しでも応援したいという気持ちが伝わった。

病気の後遺症で、昔のようには颯爽と歩けなくなったし、言葉も今は若干不自由ではある。
苦しいリハビリを乗り越えた、その身体全体からは、やはりオーラが溢れていた気がした。
国民大衆に愛され、スポーツに愛されたスーパースターは、今回もまた周りの人々に勇気を与えてくれた。
そしてオリンピックを取材する側、すなわち裏舞台は何度も経験した長嶋さんが、ついにオリンピックの表舞台に登場したのだ。

ちなみに病気後の長嶋さんのリハビリへの取り組みは凄かったと聞く。医者も驚く回復ぶりはやはり超人的だったといわれる。
今は87歳になられたが、宮崎キャンプに出向いたり、東京ドームに応援に駆け付けたり、巨人軍終身名誉監督の肩書を持ってまだまだ元気に活動されている。
それにつけても長嶋さんの背広姿は、いつも大変おしゃれである。背広とはいかにも昭和の表現だが、いわゆるスーツもジャケットも、パンツもネクタイも、チーフも全てがかっこいい。動物や、てんとう虫をモチーフにしたピンズもジャケットに映えている。
ソウルでの16日間、私たちスタッフと一緒に精力的に取材して回る長嶋さんは、まだ52歳で若々しく、あの時のジャケット姿も素敵だったが、早く再びユニフォームを着てほしいとずっと願っていた。多くの野球ファンは同じ思いだったのではないか。
カラーでもなく、白黒写真に残された背番号3のユニフォーム姿が一番かっこいいと個人的には思っていた。

そんな長嶋茂雄さんも今年2月20日には88歳になるが、いまだにお元気なのがうれしい。
最近、私の頭にふと1988年ソウルオリンピックでの16日間が蘇った。
なぜかパルパル(88)のオリンピックが懐かしく思い出された。
88、パルパル、ダジャレの様な連想でしか浮かばなかった自分がとても恥ずかしいが、あれから36年もの月日が経った。
それでも素敵な記憶は永久に不滅だ。

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