Essay

シリーズ・記憶の解凍⑪「1984年サラエボオリンピック」~待ち焦がれた想いと、切ない結末~(後編)

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

日本中の注目を集めたスピードスケート男子500mは、北沢欣浩の銀メダル獲得が燦然と歴史に刻まれた。
期待の黒岩彰は10位と入賞すら叶わなかった。
1983年に世界スプリント選手権で日本人初の総合優勝を果たし、翌84年のサラエボ五輪では金メダル候補として一躍脚光を浴びた。
オリンピック直前まで世界新を更新していたことも期待につながった。しかし日本にとって唯一の金メダル候補だった黒岩に当日のレース直前まで取材攻勢が続き、コンディションを維持することができなかった。
私たちの用意した特別番組は、やはり黒岩のレースについての話題を中心に進められた。
1964年インスブルック、1968年グルノーブル、1972年札幌オリンピックと、長きに渡って男子スケート短距離界のエースだった鈴木恵一氏にゲスト解説をお願いした。
今回の黒岩彰と同じように前評判ではメダルも大いに期待された鈴木恵一氏は、特にグルノーブル大会には世界新記録保持者として臨んだが、ライバルのケラー(ドイツ)に勝てなかった。
試合前にスケートの刃を、踏んだ小石で傷をつけてしまった事もあり、8位に終わった。
金メダルに一番近い場所にいても、一発勝負の500mという短いレースは必勝とは限らない歴史は繰り返された。大会前から、鈴木さんは黒岩は勝てると予想し、それだけの力があると力説していた。
事実、当時の黒岩彰は世界新記録を何回も塗り替えており、レース後の解説では、黒岩の敗因も語っていただいたが、勝てる力があっても一発勝負の500mレースの持つ怖さについて、ご自身の体験から触れられ説得力があった。
優勝候補と目されながらメダルに届かなかった経験があるだけに、後輩を思いやる心情もまた垣間見えた。

黒岩は、リベンジの舞台となった4年後のカルガリー大会では銅メダルを獲得して表彰台に立った。
いつもオリンピック本番に臨む自分の姿を、1日に何度も頭の中に思い浮かべた。
取材攻勢を受けている自分、大歓声の中でスタートを控えた自分、サラエボと同じアウトコースからスタートする自分、たとえリードを許しても相手選手を冷静に追いかけている自分、最終コーナーをきっちり回ってゴールを目指している自分など、考えられる全てのことをリアルに感じられるまでその作業を続けた結果、本番では「自分がイメージしていた通りの光景だ」と思いながら平常心でレースに臨むことができたという。
これが、日本に「イメージ・トレーニング」が導入された先駆けだともいえた。言葉にすると簡単のようだが、その努力や研鑽は想像を絶するものだったのかもしれない。
その黒岩さんが、ある席でこう話していた。
「魔物は心の中に棲んでいる。それを克服しなければ、どこにいても現れる」
そう、オリンピックなどスポーツの大舞台には常に魔物がいると言われ続けたが、その魔物は自身の中にあるということか。今でもフィジカルのみならずメンタルの強さをアスリートは求められるし、プレッシャーのない舞台はないのかもしれないが、個人差もあるし、それらを乗り越えていくアスリートへのリスペクトを忘れてはならない。

特番放送を無事に終えた後に、サラエボで事前にロケをしたシーンが次々に浮かんだ。
大会前のゼトラのリンクを舞台に、架空レース実況というVTR企画を作り、視聴者観戦のガイドにしたいと考えて、まさしく黒岩彰のパーフェクトなスケーティングをイメージし再現しようという意図であった。
スケートが得意な福留キャスターが、本番と同じゼトラのリンクで実際に500mを滑りながら、我々が勝手に望んだ黒岩勝利の仮想レースを生み出した。
スタート地点、クロスする地点、ラストのカーブ、そしてフィニッシュと、黒岩彰の人生を紹介しながら実際にスケーティングしながらレース展開をその場ごとに予想コメントしていくという内容だった。
スタートを、アウトかインのどちらかを引き当てるかが焦点だったから、まずはその話題から紹介し、我々はタイムの出にくいかもしれないアウトコースから滑り出すシナリオを選んだ。また最初のカーブの入りまでの予想タイムなどを立てながら、黒岩氏がスケートを始めた群馬・嬬恋村での生い立ちなど含めて紹介、インとアウトのクロス地点ではライバル選手との駆け引きなどの試合展開まで予想、最後のフィニッシュタイムは38秒台前半で優勝!これから始まる男子500mを、徹底的に盛り上げようとした。
今から思えば、メディアの身勝手で都合のいいシナリオ企画だったかもしれないが、それだけ熱い期待を寄せていた。
その日のロケ当日は極寒で、リンクの脇は前日降った深い雪が積みあがっていた。その雪に自分もつかりながら撮影をしたので、今でもその時のロケのことを思い出す。
撮影は過酷だったが、ふと見上げると抜けるような青空のある好天に気が付いた。
福留アナウンサーが「レース本番は本日の様に天気に恵まれて、その中で鏡のように美しく磨かれたこの氷のように、一点の曇りのない心境でレースをすべって欲しい」といったエールを込めた番組コメントが忘れられない。
黒岩彰さんのその後については、ご存知の方も多いだろう。サラエボから4年後1988カルガリー大会では同じ500mで銅メダルを獲得し、後進の指導にもあたった。
ここでは簡単な紹介で済ませたが、サラエボ以降の4年間の彼の努力や苦労は、先に述べたように並大抵のものではなかったと思う。

サラエボオリンピックの競技でのハイライトは、他にも幾つかある。
フィギアのペアーでアイスダンスのフリーに於いて、ジェーン・トービル & クリストファー・ディーン(イギリス) は、9人の審判全員から芸術点で6点満点の評価を受けるという、五輪史上初の快挙で金メダルを獲得した。
使用曲はボレロで、今でもその音楽に乗せた演技は「伝説のプログラム」として忘れられない。
女子フィギアでは、東ドイツのカタリーナ・ビットが女王になり、1988カルガリーも優勝したが、この種目でのオリンピック連覇は今でも彼女だけである。正直に言うと日本チームに関しては、500mスピードスケート以外には、マスコミが飛びつくような話題には乏しかったと言える。
そもそも日本のアルペン競技やスケートの長距離では日本は世界に水をあけられていたこともある。
そして1980レークプラシッドでは男子ジャンプ銀メダルを獲得した八木和弘ら、日本ジャンプ陣も今大会は振るわなかった。
札幌大会でのメダル独占の時代からジャンプにはいつも期待がかかるだけに残念ではあった。
また当時日本のエースに成長中だった秋元正博が、1982年に起こした人身交通事故の加害者ということで五輪出場ならなかったことも、記憶に残っている。
彼には特番のためのインタビューをあえてお願いした。
出場できなかった無念は語らなかったが、「皆さんから、メダルへの期待などプレッシャーとは?何かとよく質問を受けるが、ジャンプというものは、ただ飛ぶという行為だけでも、それは、それは大きなプレッシャーなのです。ジャンプすること自体が怖いと言えば怖いものです」と語ったコメントが印象的だった。
期待に押しつぶされるプレッシャーよりも前に、この競技の持つ特殊な思いを率直に表してくれた。アスリートは実際にそんな思いでいるのか、はっとさせられた。
そのスポーツを実際にするアスリートの心情も理解しないまま、我々マスコミは勝手な想像ばかり膨らませて考えているのだなと考えた時に、黒岩彰のプレッシャーの意味も、簡単に口に出せないとその時思った。
いずれにしても、当時アスリートに対するメダルへの重圧、プレッシャー、「オリンピックには魔物がいる」という言葉が新聞やテレビで躍った時代である。

そして美しいサラエボの街のことである。オリンピック後、この都市は波乱に満ちた歴史を辿った。
1984年当時、サラエボの街中ロケをした時の福留アナウンサーのレポートの一節が懐かしい。
「ここはオリンピック開催の名誉を受けたユーゴスラビアの都市サラエボです。この国は2つの文字、3つの宗教、4つの言語、5つの民族、6つの共和国、7つの国境からなる多元国家です。御覧のように美しい街並みが広がる素敵な都市です。」本当にサラエボは美しく素敵な街だった。
1990年ユーゴスラビアの体制崩壊、幾多の民族紛争を経験し、サラエボは一時期廃墟と化した。
あのゼトラのスケートリンクは空爆や地上砲撃を浴び、そのあたりは今や戦争被害者たちのお墓が立ち並ぶ。
このボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で約25万人が命を落とし、200万人が住む家を奪われたと聞く。
ユーゴスラビアは解体し、現在はセルビア、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア、コソボと7つの国に分かれた。
初めてのオリンピックに緊張していた私に、笑顔でやさしく接してくれた組織委員会アクレディ事務局の美人お姉さんは、果たして無事であったろうか。

大会以来40年が経過したが、サラエボを再訪する機会には恵まれなかった。
サラエボはボスニア・ヘルツェゴビナの首都となったが、もはやゼトラのリンクをはじめオリンピックの遺産など無いのかもしれない。
何よりただ一度だけオリンピックを開催した東欧のユーゴスラビアという国家自体が、今や存在しない。
日本国民が待ち焦がれた1984年サラエボオリンピックとは何だったのか?
個人的には、初の欧州出張、テレビマンとして初のオリンピック体験だからこそ強烈な思い出となった。
日本中が異常なまでに期待をかけた黒岩彰フィーバー、スポーツにおけるプレッシャーや、オリンピックには魔物が住むといったエピソード・・。そして何より500mレースにおける一発勝負の非情なドラマの結末、アスリートの母の心情、そしてサラエボという都市の、その後の過酷なまでの運命と歴史が、切ないまでに胸に迫る。
今回の記憶の解凍は、あまりにも感傷的な私の個人的な思い出と共にあるのは間違いない。

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