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日本人初のメジャーリーガー村上雅則氏 ~60年前の記憶と継承~

60年前の1964年、東京オリンピックが開幕する直前の9月8日、アメリカのプロ野球メジャーリーグの一戦「サンフランシスコ・ジャイアンツ対コルツ45(現アストロズ)」のナイトゲームでの出来事だ。
海風が強いサンフランスコ・キャンドルスティックパーク(旧名称)で一人の日本人が歴史を切り拓いた。
同点の9回から延長戦に突入したゲームでリリーフに立ち、3回を1安打無四球3奪三振の好投。
4-4の延長11回裏に味方のサヨナラ弾が出て、日本人メジャーリーガー初の1勝目が誕生した。

村上雅則氏、現在79歳の彼は 、MLBで延べ2年間プレーし、メジャー通算54試合(1先発)に登板し5勝1敗9セーブ、防御率3・43の記録を残した男である。
UNHCR(国連高等弁務官事務所)難民サポーターとしての活動でも高く評価され、2023年に日米協会から「マーシャル・グリーン賞」が贈られたほど 慈善活動に長年貢献してきた。
2024年1月22日、その野球の先駆者としての功績のみならず、社会貢献活動にも敬意を表すという意味で「第14回日本スポーツ学会大賞」を受賞され、その記念講演で様々なエピソードを伺うことができた。(文末参照☆)

村上さんのメジャー初登板は1964年9月1日。アウェーのメッツ戦で0対4とリードされた8回裏無死一、二塁で緊急登板し、現在も記録に残る日本人史上最年少の20歳デビューを果たした。
通訳もいない、英語もそんなに上手ではない、マイナーリーグでは経験していなかった敵地シェイスタジアムで大観衆のヤジも飛ぶ、そんな状況の中で、左翼ポール際のブルペンから緊張のメジャー初マウンドまで歩いていく若者の心境はどうだったのか?
緊張を解きほぐすために口ずさんだのは、大ヒット中の「スキヤキソング(上を向いて歩こう)」だったという。
坂本九が歌って63年に日本で大ヒットした「上を向いて歩こう」は、初め村上さんがプレーしたカリフォルニアのフレズノのラジオ局のディスクジョッキーが流したことから人気に火が付き、全米ヒットチャート1位になった。
4万人の大観衆で埋まったスタジアムを見上げながら、「上を向いて歩こう」でマウンドへ登ると、先頭打者5番スミスを三振に切って取った。
次打者には安打を許したものの、続く2者を三振、内野ゴロに打ち取ってマウンドを降りたそうだが、はたちの日本人が道を拓いた瞬間だった。
その後、8試合連続無失点。高卒2年目左腕が名選手メイズらと、サンフランシスコジャイアンツでプレーした。
その後60年間の長きにわたり、野茂茂雄を筆頭に、現在の大谷翔平やダルビッシュ有など数多くの日本人がメジャーリーグベースボール(MLB)で活躍することになった先陣を切ったのだ。

プロ入りの決め手は、アメリカへの憧れからだった。法政二高(神奈川)ではセンバツ甲子園で優勝し、進学希望にもかかわらず複数球団から誘われ、南海・鶴岡監督の「野球留学させる」との口説き文句で南海に入団した。アメリカテレビドラマの西部劇「ローハイド」が大好きで、物おじしない好奇心もアメリカ行きを後押しした。
当時高校卒業の初任給が約1万円の時代にアメリカまでのパンナム航空の飛行機代が30万円だったそうだ。
テレビで見た地球の裏側へ、契約2年目に同僚2人とマイナー契約での留学で海を渡った。1ドルが360円の遠い昔、アメリカはとてもカラフルで”おとぎの国”に来たようだったと村上氏は語っている。

翌65年もサンフランスコ・ジャイアンツと再契約。だが、復帰を求める南海との間で板挟みになった。
両国のコミッショナーが協議の末、5月にようやく再渡米できたこの年は、ドジャース相手に、11試合の登板で1失点。ただチームは同氏が不在の間、宿敵に1勝5敗と振るわず、「留学」はわずか2年で終わった。
講演の締めくくりに、村上さんは「わが人生に悔いあり」と語ったのが印象的だ。
たいていの選手はやってきたことに悔いなしというのだが、村上さんは違った。
メジャー2年目を好成績で終えながら、日米コミッショナーによるいわゆる手打ちによって、南海球団復帰の道しかなかった。
21歳になったばかりの若者が、メジャーになじんで、話せなかった英語も半年たてば街を歩ける程度に上達した。本人自身が性格が向いていたというだけに、チームメートからも”マッシー”と呼ばれ愛された。
帰国後に後援者と横浜のレストランで会食した際、ふと「I left my heart in San Francisco〜」(想い出のサンフランシスコ)を口ずさんだ時、思わず涙がこぼれたそうだ。
サンフランシスコに戻って野球がしたい思いが溢れたのだろう。
後援者は「親分(鶴岡監督)を説得してやろうか」と言ったが、断ったそうだ。
メジャーでやりたい強い思いはあったが、口約束だったにもかかわらず、「米国への野球留学」を実現してくれた当時の鶴岡一人監督には恩義があり、感謝をいまだにしていると語った。
実力だけでメジャー挑戦ができたわけではない時代。先駆者には、他人にはわからない苦労があったのだと推察した。

さらに村上氏が日本人大リーガー第1号という称号以外に、長くチャリティ活動を続けていたことはほとんど知られていないだろう。
1972年にニカラグア地震の救援活動中に飛行機が墜落して亡くなったロベルト・クレメンテの難民救済チャリティ活動を引き継ぎ25年以上も慈善活動を行ってきた。
UNHCR(国連高等弁務官事務所)難民サポーターとしての活動でも高く評価され、2023年に日米協会から「マーシャル・グリーン賞」が贈られた。
ロベルト・クレメンテはプエルトリコ出身で、1955年から72年までの18シーズンをピッツバーグ・パイレーツ一筋で過ごし、通算3000本安打も記録したMLBヒスパニック系選手の先駆者であった。
皮肉にも3000本安打の偉業を達成したシーズンの暮れ、12月29日のお祝いパーティーの最中にニカラグア地震を知る。
すぐさまチャーター便で自らニカラグアに救援物資を運ぶ途中の31日に、飛行機が墜落し38歳の生涯を終えたという悲しいエピソードがある。
MLBはそのような彼の功績を讃えて1971年創設のコミッショナー賞を1973年から「ロベルト・クレメンテ賞」として、毎年慈善活動に貢献したメジャーリーガーを表彰しており、その価値はMVPにも匹敵するとさえ言われている。
直接対戦したことがあり、ピッツバーグの試合では本人からサインをもらうなど、憧れのメジャーリーガーの一人であったクレメンテに慈善活動への志を教わったという。
1965年の夏、ピッツバーグの球場でクレメンテから話しかけられた村上さんは、彼から「お前も大きくなったら、社会貢献活動をやってくれ」と言われたそうだ。
大きくなったらという意味は、歳をとったらと解釈したそうだが、実際歳を重ねた1995年から、村上さんは難民救済チャリティー活動を継続してきた。
スペシャルオリンピックス、国民難民支援、熊本地震や東日本大震災のチャリティーも行っていると聞いた。

村上さんの時代から60年。
アメリカメジャーリーグでMVPを獲得する日本人選手が生まれた。
二刀流で、投げては2桁勝利、打ってはホームラン王という、アメリカ人でも成し得ない偉業を大谷翔平はやり遂げた。
さらにオフの話題でも、日本の子供たちにと、全国の全小学校に6万個のグローブを寄贈した。
また新天地ドジャースとの10年契約では、年間およそ10億円を慈善基金に寄付をするという契約項目まで設けた。さらには直近の能登半島の震災ではドジャースと共に約1億4500万円の援助金を出した。
確かに、アメリカのスポーツ選手たちやセレブは昔からチャリティー活動に力を入れていることが多く、メジャーリーガーも例外ではない。
野球選手の誰もが、賞のために活動をしているわけではないが、社会への影響力も強く話題を呼ぶのは間違いない。
ちなみにクレメンテ賞の2022年受賞者はジャスティン・ターナー(ドジャース)、2023年はアーロン・ジャッジ(ヤンキース)だ。
いずれ大谷選手も、この名誉あるクレメンテ賞を受賞するのではないだろうか。
そして今年で80歳になろうかという村上さんは、今でもチャリティ―活動を積極的に継続している。
メジャーリーグでプレーすることが、憧れから身近な現実へと変わりつつあるこの世界で、弱者や困っている人たちへの援助を忘れない優しい気持ちは60年前から芽生えて、今も絶えることなく脈々と継承されている。

◆村上雅則(むらかみ・まさのり)1944年(昭19)5月6日生まれ、山梨県大月市出身。63年、法政二高を卒業後、南海入団。翌春サンフランシスコジャイアンツに野球留学し、1Aフレズノで最優秀新人賞に輝き、同年9月1日にメジャー昇格したその日に初登板。メジャー通算54試合(1先発)に登板し5勝1敗9セーブ、防御率3・43。66年の日本復帰後は74年まで南海、75年阪神、76~82年は日本ハム。NPB通算566試合で103勝82敗30セーブ、防御率3.64。68年には18勝4敗で最高勝率のタイトルを獲得。左投げ左打ち。現役時代は183センチ、81キロ

☆参照
日本スポーツ学会とは、大学等の学校教員、ジャーナリスト、研究者、オリンピアン、各競技関係者などが集まり、1997年に発足した学術団体である。会員数は170名を超え、年に数回「スポーツを語り合う会」を開催し、2010年から「日本スポーツ学会大賞」を設定し授与を行ってきた。この大賞は、学会独自の視点によって日本のスポーツ界へ貢献された個人・団体を表彰する制度で、過去にボクシングの村田諒太氏、車いすテニスの国枝慎吾氏、バスケットの田伏勇太氏らが受賞して、今回で14回目を数える。
そして、このスポーツ学会の代表理事である長田渚さんが、編集長を務められる「スポーツゴジラ」は年4回季刊で発行されている。スポーツに敬意を払い、心からスポーツを愛する人に『スポーツゴジラ』を届けたい、「人民の人民による人民のスポーツ」が、『スポーツゴジラ』の原点と長田さんがいうように、スポーツについて様々な角度からアプローチした素晴らしい冊子である。
都営地下鉄の各線や全国の大学102か所に無料で設置されており、2006年の創刊から通算61号を数える。
今回の村上雅則氏のスポーツ学会大賞の記念講演の内容は、2024年春発行予定の62号に掲載されると聞いている。

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