Essay

シリーズ・記憶の解凍⑫「1992年アルベールオリンピック」~伊藤みどり会見の”すみません”~

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

トリプルアクセルと共に生きたフィギアスケート人生だった。
3回転半するジャンプ演技と言葉にすれば簡単だが、その難易度は女子にとっては離れ技ともいえるものだった。
前向きから左足のアウトサイドエッジ(スケート刃の外側)で踏切り、空中で反時計回りに3回転半し、右足のアウトサイドエッジで着氷する。
そのジャンプの着氷時に右足には200キロの負荷がかかると聞いた。
その難技のトリプルアクセルに女子の世界で初めて挑戦し、オリンピックの大舞台で見事に成功を収めた偉大なアスリートがいた。

伊藤みどり、1992年オリンピック当時22歳だった。
幼いころ両親が離婚し、スケートのコーチである山田満知子さんの家に、小学校5年生の時から居候しながらスケートに取り組んだ。
母親代わりともいえる山田コーチとの二人三脚で世界を目指した。
1988年に初めてトリプルアクセルに挑み成功し、1989年世界選手権でもトリプルアクセルをひっさげて日本人、アジア人初の優勝を果たした。85年から92年まで全日本選手権8連覇、何より世界初のトリプルアクセルを成功させた後も、そのジャンプ力、スピード感あふれる滑りは間違いなく世界一にふさわしいものだった。そこまで順調に進んだスケート人生において、トリプルアクセルは自身の存在価値の証明ともいえるものだったように思う。
かつて伊藤は「トリプルアクセルは精神力、勇気が必要。普通のジャンプと違って前向きに跳ぶので、すごく怖い」と語っていた。
それでも4年以上もかけて練習を継続し、自分の武器にしたことで、当時の女子フィギア界では一番手に君臨した。

そして満を持して臨んだアルベールビルオリンピックであったが、思わぬ事態に。
初日のオリジナルプログラム(現在ではショートプログラム)で、演目にトリプルアクセルを回避したのに、難易度がアクセルより下がるトリプルルッツで転倒したのだ。
その信じられない光景に、約1万人の観客からもため息が漏れた。
金メダル争いをしていたクリスティーヤマグチが1位で、伊藤は4位に沈んだ。
実はオリジナルプログラムの前日練習で、トリプルアクセルを含むコンビネーションジャンプに14回挑戦して成功が一度もなかった。
素人目にも、明らかに不調とみられた。ライバルの一人トーニャ・ハーディングが昨年からトリプルアクセルを取り入れたから、伊藤がやらないわけにはいかないと言っていた山田コーチだったが、その時トリプルアクセルからルッツに変更するかもと明かしていた。
自分そのもともいえるトリプルアクセルを、フリーだけにする安全策は裏目に出たのかもしれない。そうせざるを得ないほどの重圧が彼女にのしかかっていた。
得点差において、フリー演技でヤマグチがよほどのミスをしない限り、伊藤の金メダル自力獲得が絶望となった。

そのオリジナルプロフラム(現在はショートプログラム)後の記者会見における伊藤みどりの第一声は、「すみません」だった。
「どうもすみませんでした。ルッツは思い切り跳べたのですが、着地の仕方が悪かった。トリプルアクセルをやめたのは先生(山田満知子コーチ)と相談して自分で決めました。緊張しないでリラックスしてやろうと自分に言い聞かせていたんですが・・」
皆様に期待されながら、失敗して、どうもすみません・・という発言をしたのだ。

私はこの会見の言葉に、若干の違和感を覚えた。
いったい誰に対して申し訳ないという思いが真っ先にあふれ出たのだろうか。
言葉だけで見ると、最初の挨拶代わりにも取れるという人もいたであろう。素直に物事には謝罪する心は日本人の美徳だという人もいるかもしれない。
しかし、スポーツのパフォーマンスの結果に対してアスリートが謝るというのには、どうしてもなじめない。
いずれにしても、関係者に対して自身のふがいなさ、自分へ向けた情けない思い、決断がうまくいかなかった悔やしさなどが伊藤の言葉からにじみ出て、現場を重く包んでいたのを私は覚えている。
きっと金メダルへの確実性という安全策を選択して、自分の人生を賭けてきたものを披露できなかったことに対しての”すみません”であったように私は思う。
オリンピック期間中、海外国での評判や報道の様子を知りたくてニューヨークに居住する友人に電話をかけたところ、アメリカでもやはりフィギアスケートに大きな注目が集まっていたとのことだ。
何せ、結果的に女子フィギアにおいて金メダルは、伊藤のライバルだったクリスティーヤマグチ、銅メダルはナンシー・ケリガン、4位はトーニャ・ハーディングとアメリカ勢が上位を占めたほどだ。
そして伊藤みどりの会見の”すみません”という言葉について、「なぜ、この偉大な日本人アスリートは謝罪の言葉を述べなくてはならないのか?不思議だ」というアメリカ国内での報道があったと聞かされた。
得点差から金メダルはほぼ絶望的とはいえ、まだまだフリーの演技も残されており、メダル獲得の可能性は十分残されていた。
新聞記事に載った渡部絵美さんのコメントも「弱気になった。今シーズンはずっとトリプルであったから守りに入った。
インタビューで”すみません”という言葉を聞いて・・持ち味の明るさがなかった。」としている。渡部さんは全日本8連覇、レークプラシッドオリンピック6位入賞の実績を持ち、伊藤が憧れてスケートを始めるきっかけとなったレジェンドである。その先駆者がみても、明らかに何かがおかしかった。
普通にやれば金メダルは間違いなしと言われ続けてきた、伊藤みどりだった。

一夜明けた伊藤は明るさを取り戻していた。むしろプレッシャーから解放されて、オリンピックの大舞台で初めてトリプルアクセルを成功させる決意が持てたのかもしれない。

フリーの演技が始まった。
4分間の演技の中で2回トリプルアクセルを盛り込むプランであった。しかし1回目は転倒し、観客からため息が漏れる。やはり調子が悪いのか?
そのまま演技は進行し、体力的にも厳しくなる残り1分を切ったあたりで、2回目のトリプルアクセルへ挑んだ。高く飛び上がって見事な着地につなげるジャンプは見事に成功した。
観客の大きな拍手、現場にいた私も思わずオーと声が出たほど素晴らしい演技だった。
伊藤も応援席に笑顔を見せて一瞬小さく右手を挙げた。
結果は立派な銀メダル。日本人初のオリンピックメダル獲得という歴史を刻んだ。
オリンピックという大舞台でどうしてもトリプルアクセルを跳びたかったという強い意志が、彼女を立ち直らせたのだろう。
”転んでも、もう一度”という覚悟に拍手であった。
金メダルはクリスティ―ヤマグチであったが、父が日系二世、母が日系3世という彼女のフリーの演技は、安定しており高い芸術点も獲得した。
ちなみに地元フランスに4回転ジャンプに挑むボナリーという選手がいたが、そのジャンプは失敗し5位に終わっている。
すなわちフィギアスケートは高い技術力と、優美なスケーティングの融合を競うものであることは、いつの時代も変わらない。
それでも、1980年代のカタリーナ・ビットを代表とする様な芸術性に、トリプルアクセルといったスポーツ性を持ち込んだ伊藤みどりの功績は大きい。
そして大会終了後も「金メダルは取れなかったけれど、トリプルアクセルを跳べたから許してください」とお茶目に語った伊藤には笑顔が戻り、とても輝いていた。

その後、まるでデジャビュ(既視感=前にも見たことがあるような感覚)を経験したようなオリンピックがあった。
2014年ソチ大会女子フィギアにおける浅田真央の演技だ。彼女は2010年カルガリー大会で銀を獲得した後、今度こそは金メダルをと期待されていた。
カルガリー大会では、オリンピックの女子シングル史上初めてショートプログラムで3回転アクセルを成功させた。さらに同一競技会でショートプログラム、フリーと合わせて3度の3回転アクセルを全て成功させたのも史上初であり、真央ちゃんの愛称で国民的人気を得ていた。
しかしソチ大会では、ショートプログラムのトリプルアクセルで転倒しまさかの16位。その他のジャンプもことごとく失敗した。
日本中が応援していたが、金メダルへの過剰なほどの注目度だったから、首相まで経験した人物が「あの子、大事なところで必ず転ぶ」などとアスリートを貶める様な暴言まで飛び出した。
しかしフリーの演技では、強い心で見事にトリプルアクセルはじめ全てのジャンプを決めたことに日本中が拍手し、感動した。
結果は見事に6位入賞を果たし、全てを出し切った演技後の涙も素敵だった。真央ちゃんの金メダルももちろん見たかったが、彼女もまたトリプルアクセルにフィギア人生をかけて生き抜き、そして成し遂げたのだった。

最近のオリンピックでも、メダルを獲得しても2位になるなど金メダルという頂点を逸した場合に、試合後のインタビューや会見で、「すみません」という言葉を聞くことがままある。
リオ大会女子レスリングの吉田沙保里は、決勝で敗れ銀メダルとなったが、試合後の第一声は「ごめんなさい」だった。
大会直前に亡くなったレスリングを教えてくれた父に対しての想いが溢れていたのは事実だ。
オリンピック金メダル3連覇の実績があっても、2位になってもアスリートは「すみません」の言葉を口にする。
私はこのことを批判するつもりは毛頭ない。
ただアスリートの歩む道を取材する側、各種スポーツ団体、関係者たちのスポーツの勝負におけるとらえ方も考え直す必要があるかもしれないと思うのだ。
メダル至上主義を脱却し、ベスト記録を出しての8位入賞など、もっともっと讃えるといったスポーツの見方、考え方の浸透である。
また期待をかけるのは一向にかまわないが、もっともっとライバルや相手選手のこと、実力レベルなどの情報を知ろうではないか。
スポーツ勝負の世界に絶対はない。
それでも強敵を打ち破ってやはりチャンピオン、さすがでいいのであって、必ず金メダルを取るというシナリオはどこにもないのだから。
もちろん競技により(団体か個人かもある)、その時の世界ランキングにより、何より個人の持つメンタリティーの差により違いはあるに違いない。
ただし少なくとも会見でアスリートに”すみません”と思わせるような、金メダルといった頂点でなければならない、勝つのが当然で、失敗したらどうしたの?というような日頃からの過剰な期待を押し付けるのはやめにしたい。
競技の本質を理解し、アスリートを真に応援する心を持った、見る側のスポーツ文化の成熟を期待する。
そしてアスリートも、何より自分のためにという意識を高く競技に臨んで、競技を極めて、楽しんでほしい。

1991年世界陸上東京大会で金メダルを取った男子マラソンの谷口浩美が、翌1992年バルセロナオリンピックにメダルを大いに期待されて臨んだ。
優勝候補だった谷口は、20km過ぎの給水地点で後続選手に左足シューズの踵を踏まれて転倒し、さらにシューズが脱げて履き直すアクシデントに。
30秒余りのタイムロスが大きく影響し、優勝争いから脱落。しかしレース後半で順位を上げ、結果見事に8位入賞を果たした。
ゴール直後の谷口選手のインタビューの、最初の一言が印象的だった。
「途中で、こけちゃいました」
続けて、「これも運ですね。精いっぱいやりました」苦笑いしながらも、こう答えたのだ。
決してアスリートは手を抜いたわけでもない。競技をなめているわけでもない。
ここへ至るまで、想像を超える努力と精進をしてきたに違いない。
ベストを尽くしたはずだ。メダルが欲しいのも、感動を求めるのもアスリート自身だろう。それでも叶わぬ時もある。
「こけちゃいました」これでいいのだ。

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