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世界卓球2024女子団体決勝戦に想う ~中国卓球の歴史に敬意~

世界卓球2024女子団体で、早田ひなが、平野美宇が、張本美和が、あの中国をあと一歩のところまで追い詰めた。
卓球の世界で、中国は圧倒的な実績を持ち、優れた選手を輩出し続けている。世界卓球女子団体では5連覇中である。

日本は1番手の張本美和(15歳)が世界1位の孫穎莎に0―3黒星というスタートだったが、2番手の早田ひな(23歳)が世界3位、東京五輪金メダリストの陳夢を破ると、3番手の平野美宇(23歳)は、世界2位の王芸迪にストレート勝ちを収めた。
そう、決勝戦の相手中国は世界ランキング1位から3位を占める名手ばかりだったのだ。
こうして53年ぶりの世界一に王手をかけたが、第4試合の早田は孫穎莎、第5試合の張本は陳夢に敗れて、金メダル達成はならなかった。
1971年名古屋大会以来、53年ぶりの金メダルに挑んだが、結局3対2で中国に屈し、世界卓球団体で5回連続の銀メダルとなった。
一方、中国は連覇を6に伸ばした。
半世紀以上の月日を重ねても、叶わない相手がいるのには驚きを隠せない。
しかし、日本はあと1試合勝利すれば、中国を倒すところまで成長してきた。

世界卓球選手権は、国際卓球連盟(ITTF)主催で1926年に始まり、通称、世界卓球と呼ばれ最も権威のある国際大会である。
第47回大会以降は、個人戦と団体戦が隔年で開催されている。(西暦末尾奇数年に個人戦、同偶数年に団体の国別対抗戦を開催)

世界選手権大会においては、当初ハンガリーの実力が圧倒的であったが、ハンガリーの退潮とともにチェコ、オーストリア、アメリカがそれぞれ徐々に台頭を見せた。
はじめてアジアで開催された1952年第19回ボンベイ大会で、日本が男女ダブルス、女子団体、男子シングルスの4種目で優勝して以降、世界の卓球界の勢力は圧倒的にアジア優勢へと傾いた。
特に日本は男子においては荻村伊智朗さんが、世界選手権で12個のもの金メダルを獲得するなど卓球王国への道を歩み始めていた。
そして追いかけるように、中国が国際舞台に躍り出る。
世界選手権においては、1956年東京大会に参加し、1961年には北京で初めての自国開催を果たした。
中国は国をあげて卓球に力を入れ、1950年代の日本に続いて、1960年代から徐々に世界の覇者へとなっていく。

しかし、中国で起きた文化大革命の影響で1967年、1969年の世界大会は欠場。
日本卓球界の外交努力と周恩来の決断により1971年、中国は3大会ぶりに国際舞台に復帰した。
そして、1970年代以降は、中国の卓球全盛時代となった。特に女子においては、中国は絶対的な王者として君臨し続けているのだ。

ちなみに、男子卓球は1980年代末以降のスウェーデンなどヨーロッパ勢の黄金時代があり、中国男子は一時期、団体で表彰台にも上がれぬほど低迷した。
しかし90年代半ばには再び王座に返り咲き、2000年代半ば以降は男子においても中国の完全な一強状態となっている。
実際に今回の世界卓球団体戦でも、中国はフランスを破り、なんと世界卓球11連覇を実現させた。通算では23回の優勝と強さは群を抜いている。
そして張本(女子張本の兄)らを擁する日本は、中国に準々決勝で3-0と完敗した。

中国の強さは世界でも別格であるが、その強さの理由として様々なことが考えられる。
そもそも総人口が多いために、優秀な選手が出現する確率が高い。しかも卓球のステイタスが高いために優秀な人材が卓球を目指す。
中国の卓球人口は約1億人、プロが2000人もいると言われ、その中からのエリートが国の代表となるのだから強いはずだ。
練習方法が優れているともいうし、国家の支援を受けているとも聞いた。
しかしその裏返しとして、中国卓球協会を中心とする国を挙げての、勝利への使命感は大きいのではないか。
また卓球というスポーツは、日々の進化が激しく、プレースタイルの変化を求めて常に先進の研究を怠らずトレーニングし、しかも圧倒的な実力差を持たなければならない。
たんに実績があるとか、勝負強いというだけでは勝ち続けられないのが卓球なのだともいう。

中国では、卓球は国技である。
卓球を国技にする施策をとった中国の時代背景を、荻村伊智朗さんの自伝から知った。
荻村さんは、世界選手権で12個の金メダルを獲得した伝説の名選手で、元世界卓球連盟会長も務めた方だ。
卓球の国際交流にも大変尽力されたが、1994年に62歳の若さで亡くなられた。

中国の女性には、古くから纏足(てんそく)という習慣があった。
纏足とは、中国で10世紀ごろから20世紀半ばくらいまで続いた、独特の風習である。
幼いころから意図的に足が大きくならないように、きつく布などで縛り続けて成長を止め、小足のまま成人女性になることを目指す。
女性の最大の魅力の一つとしての小足、昔の中国における女性の立ち位置などに由来するものと聞いたが、本当の実態は私にはわからない。
しかし中国の女性にとっては、肉体的にもかなりの負担を強いるものだったようで家事や農作業にも影響があったらしい。
となれば、スポーツなど到底難しいコンディションであったに違いない。

かつて中国初代首相・周恩来はこう語ったそうだ
「纏足は結局、体格が悪くなることにつながります。その女性から生まれてくる子供たちの体格も悪くなる。民族として悪循環に陥ってしまうのです。
この習慣を断ち切るためには、女性のスポーツを盛んにすることが必要だと考えています。
春夏秋冬、老若男女、東西南北、広い中国のどこでもできるスポーツが私たちには必要なんです。中国はまだ貧しい国です。
でも、卓球台なら、自給自足できる。林の中にセメントやコンクリートの卓球台を置くことも可能でしょう。そういう理由で卓球を選んだのです」

もう一つ、欧米列強の植民地となった屈辱の経験を吹き払うために、スポーツによって自信を得ようと、周恩来は考えた。
中国人は、アヘン戦争での敗戦以来、欧米人に劣等感を抱いている。
そこで、国民の自信を取り戻す方法として目をつけたのがスポーツだった。
しかも卓球なら日本が活躍しているので、同じ体格の中国人でもやれるのではないか。そう考えて卓球に力を入れることにしたのだという。
(荻村伊智朗著「笑いを忘れた日」卓球王国刊からの引用)。

そして周恩来のピンポン外交についてのエピソードなど、昨年9月にとある講演で、木村 興治さんから直接伺う機会にも恵まれた。
木村さんは現在83歳、元卓球日本代表として、世界選手権で金メダル4個を含む合計9個のメダルを獲得した名選手だ。
お話の中では、記事になっていないニュアンスの物語も含まれており、何より、スポーツで名を成しても、なお国家の政治に翻弄された、卓球男子アスリート荘則棟さんとの国境を越えた友情や、中国との長い交流の歴史が詰まっており、大変興味深かった。
木村さんと荘則棟さんとは共に1940年生まれ、同い年だった。
荘則棟さんは、世界卓球シングルスで1961年から1965年まで3連覇を果たした。その当時はまさしく国の英雄とも言われる人物だった。
文化大革命の影響で、その後2大会中国は参加できなかったが1971年の名古屋大会で復帰この時アメリカ人選手との交流が米中の改善のきっかけとなった。
いわゆるピンポン外交最大のエピソードだ。

間違えて中国の選手バスに乗ってしまったアメリカ人選手コーワンに荘則棟さんが話しかけ、記念品である中国産の錦織を渡したことが発端だった。
大会中に交流が芽生え、感謝の意を伝えるべく、アメリカ卓球チームの中国訪問が実現した。
アメリカ、中国政府と双方の思惑があったのは想像に難くない。
わずか数行では表現できない、当時のアメリカと中国の関係性、きわめて難しい政治的な国際情勢があった。
本来なら、中国の選手とアメリカの選手が話をしたり、接触することなど許されない時代であった。
それでも卓球というスポーツが、何より荘則棟さんの「友好第一」を実践したスポーツマンシップが、アメリカと中国の関係のみならず、世界各国との国交回復につながっていったのは間違いない。
たとえそこに卓球を利用した、中国の政治的野心があったかも知れないにせよである。

荘則棟さんは、その後スポーツ大臣に就任したが、中国の激動の歴史に翻弄された。
紅青ら四人組逮捕に伴い失脚したうえに、4年間の投獄まで味わった。卓球アスリートは高額なギャラを得ており、走資派として糾弾されたようだ。
走資派とは、文化大革命の間に最も多く使用された言葉で、社会主義を支持するふりをしながら資本主義を回復しようとする者として批判された。

国技の卓球で世界一にまでなった男が、若い紅衛兵たちに吊るしあげられたとまで聞いた。
その後復権し、卓球コーチとなり後輩の育成に貢献したが、2013年、72歳で亡くなった。
木村さんは数々の交流を通じて、この中国卓球の名手を大変尊敬し心を通わせたそうだ。
荘則棟さんも、木村さんはじめ日本選手をリスペクトしていたに違いない。
現在の卓球スタイルとは違う、「前陣速攻」という卓球台にへばりつくようにしてボールを打ち返す、荘則棟さんのプレーぶりが目に浮かぶような素敵な講話だった。

さて話を2024年から、さらに未来に向けよう。

辛うじて女子団体6連覇を果たした女子中国だったが、試合後、孫穎莎と陳夢は目を赤く腫らし、安堵の涙を流していた。
国家の威信まで背負ったような、彼女たちのプレッシャーは並大抵ではないはずだが、今回はそれを見事にはねのけた。

中国のメディアも日本チームを賞賛し、いくつかのポイントまであげていた。
1つ目は選手層が厚くなった点、2つ目は攻撃力の向上、3つ目はメンタル面の強さを指摘。絶対女王チームを追い詰めた日本のパフォーマンスに中国も戦々恐々の様だ。

日本もまた、目指せ中国、追い越そう中国をモットーに、強化を推進してきた。
日本では2008年からエリートアカデミーという事業が行われ、幼い頃から卓球の英才教育ひいては打倒中国を意識した育成が行われ、これによって技術やプレースタイルの新陳代謝が活発に行われるようになった。
さらに、日本は”ホープスナショナルチーム”という独自の強化プログラムを立ち上げている。
このシステムは、U12(12歳以下)、U10(10歳以下)、U8(8歳以下)と小学生世代においても細かくカテゴリーが分けられており、ここまで細分化されている国はない。
近年は中国も日本の真似をしているらしく、若手の育成においては日本が世界の最先端を行く。
ホープスナショナルチームの主な活動は、年に数回行われる強化合宿と国際大会への参戦であり、かつて2013年の中国合宿では、当時小学4年生の張本智和の姿も見られるなど、若いうちからの経験を重視してきた。それは女子の張本美和(男子・智和の妹)も同様である。

他にも、平野美宇は2017年のアジア選手権で中国のトップ選手を3人連続で破り優勝した。
その日のコンディションや会場の雰囲気などで、中国選手に一回勝つことはあっても、トップ選手3人に連続で勝つというのは、近年の卓球界では想像もできなかった。
その躍進を支えたのが、平野の「高速卓球」と呼ばれる全く新しい最先端の卓球を駆使したからだと言われる。
中国も先進の卓球術を研究しているが、日本も負けてはいないのだ。

その一方で日本のエース早田ひなは、今回の世界卓球の帰国後の記者会見でこう語った。
「中国人選手に最後に勝つのは、孫穎莎選手と真っ向勝負をして、どちらかが勝つか負けるかのところまで行かないといけない。今は(勝つ)可能性がゼロだと思っている。
私の3つぐらい上のレベルの孫選手にどうやって近づくか。状況によって何が必要か。試合の中で色々やっていかないといけない」
孫選手との差について、素直に吐露したのが本当に潔いが、現実なのだろう。
早田でも3つぐらいレベルが上と自覚するほどに、中国のエース選手は強いのだ。
それでも、「オリンピックでは各国のエースも力をあげてくる。エース同士の対決で負けない卓球プラス、勝つ卓球を徹底してやっていかないといけない。パリオリンピックにむけて1勝ができるように、半年頑張りたい」と日本のエースは頼もしい。

ちなみに、2月24日にテレビ東京系で放送された女子団体決勝の世帯平均視聴率は、11・7%、個人平均は7.4%と高視聴率だった。(ビデオリサーチ調べ、関東地区)
時間延長して最後まで地上波放送を続けたテレビ東京は、長く卓球を中継し、応援してきた放送局だ。世界卓球は2005年の上海大会からだから、もう20年近くに及ぶ放送プロジェクトだ。
やはり日本がいい試合をすれば、期待が膨らみ視聴率も上がる。
そして長く放送に関わってきたからこそ、こうした日本人視聴者が、最大限に注目する機会に出くわすことが出来る。
(参考:男子団体・準々決勝の中国戦は、世帯7・4%、個人4・3%)

これからも、日本がんばれ! もちろんそれでいい。
しかし偉大なるライバル、越えなければならない相手がいることは、戦うアスリートたちにとって幸せなことなのだと思う。
打倒中国という、具体的な目標を立てて挑めるからだ。相手が強大であるほどに、乗り越えがいのあるものだ。

もともとは男子を中心に、むしろ中国より先んじていた日本卓球の歴史もある。
しかし現在は男女ともに、日本が中国の背中を追いかける立場が長く続いている。

中国における、4000年から5000年とも言われるの悠久の歴史から見たら、卓球というスポーツ史はまだわずか半世紀あまりのものであるのは事実だ。
しかしながら、数行では書き表せないほどに、中国には数々の歴史を乗り超えてきた卓球王国の物語がある。
その歴史には政治の背景も背負った時代も含まれて、数々のドラマがあったのは先に述べたとおりだ。
周恩来の言葉を借りるならば、女性のスポーツを盛んにすることの必要性から始まり、貧しい国からの脱却を目指すために求めたスポーツ、それが卓球だった。
それを国を挙げて、大事に育んできたからこその、中国の今の強さに敬意を表したいと思う。

それでも、そんな中国と交流し切磋琢磨してきた日本にとって、そろそろ牙城を崩す時が来たのかもしれない。
だから、もうすぐ始まるパリオリンピックでの対決が、今から楽しみで仕方がない。
歴史は塗り替える為に、そして乗り越えるためにあると思う。
やはり、歴史を変えてほしいと願う。
そして日本には今、その力があると信じている。

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