column

ローマ教皇が逝去  ~南米サッカークラブ会員ナンバー88235の人生~

ローマにあるサンピエトロ大聖堂は、カトリック教徒の総本山であり聖地でもある。毎日多くの信者や観光客が訪れる。

第266代ローマ教皇フランシスコが4月21日死去した。享年88歳だった。
ローマ教皇は、ローマ法王とも呼ばれるカトリック教会の最高指導者で、全世界約14億人のカトリック信者の精神的リーダーである。
バチカン市国の元首でもあり、教皇の歴史は2000年以上で、宗教的な権威だけではなく政治や外交にも影響力を持つ人物である。
教皇フランシスコは2013年3月から2025年4月20日まで約12年間その任を務めたが、その在任中2019年に日本の広島、長崎にも訪れて、核廃絶と平和を訴えた。
最近ではロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとパレスチナの戦争にも、ローマ教皇としての意見を持ち、和平を訴えていた。
教皇フランシスコが特に心を寄せていたのが、パレスチナ自治区ガザの人々だ。イスラエル軍による報復攻撃が始まった2023年10月以降、ガザの神父にほぼ毎日ビデオ通話などで連絡し、人々を励ました。
連絡は死去の2日前まで続いたといい、神父は「我々は一人ではないと勇気づけてくれた」と感謝している。

教皇フランシスコの本名は”ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ”。
1936年ブエノスアイレスに生まれ、イタリア系移民2世のアルゼンチン人である。
ヨーロッパ以外の出身者としては史上初めての教皇で、南米出身というのも異色と言われた。
「教会は貧しい人々のためのものである」との考えを持ち、社会的弱者に寄り添う姿勢から庶民派教皇として知られた。
また同性愛者への寛容等、従来のバチカンの考えとは違う改革派としても知られ、多くの支持者を集めていた。
知り合いのイタリア人から聞いた話だが、彼の靴も眼鏡も、街中のお店で買うようなもので、従来の教皇が金細工のものを着用していたのとは全く違うとのことだった。
国際線の移動もエコノミークラスと聞いたから、そうしたことの是非や人間的好き嫌いはさておき、貧しい人、弱者の味方を体現していたのは立派である。

ローマ教皇庁は21日、フランシスコ教皇が書いた遺書を公表した。
遺書は2022年6月29日付けで、冒頭、「地上での生涯のたそがれが近づいているのを感じながら、そして、永遠の命への確かな希望を抱きながら、みずからの埋葬場所に関する最後の望みを表明します」と書かれていた。
教皇はみずからの遺体を、歴代の教皇の多くが埋葬されてきたバチカンのサンピエトロ大聖堂ではなく、ローマ市内のサンタマリアマッジョーレ大聖堂に埋葬するよう望む意思を表明し、お墓についても特別な装飾は施さず、『フランシスコ』という教皇名碑文のみをラテン語で記すよう希望したという。
マリア崇敬に熱心であり、庶民も多く訪問するマリアの名前を冠する教会に眠りたいという気持ちが汲み取れる。。

そして、大のサッカー好きでも知られていた。
幼少期の頃から、地元ブエノスアイレスのサッカークラブ、CAサンロレンソ・デ・アルマグロのソシオに属している。
自身のサッカー歴はさほどでもなかったようだがGKであったらしい。
ソシオとは、会員として登録し、そのチームを家族の様に応援する組織のことで、いわば熱烈なファンクラブの一人であるということだ。

そのCAサンロレンソ・デ・アルマグロの誕生は1908年である。
きっかけはアルマグロ地区の教会近くでストリートサッカーにに興じていた少年たちのグループと一人の神父の出会いであった。
ある日いつものように路地でサッカーをしていた少年の一人が車にひかれかけた。
それを目撃した教会のロレンソ・マッサ神父が、毎週日曜日のミサに参加することを条件に少年たちに教会の敷地を提供し、少年たちは教会内の安全な場所で思う存分サッカーができるようになった。
神父は同時に、読み書きなど生活する上で必要になることを少年たちに学ばせたという。

アルゼンチンと言えばマラドーナやメッシを生み出した、言わずと知れたサッカー大国だ。
国内のクラブでは、ボカジュニオールやリバープレートが強豪チームとして有名だが、同じブエノスアイレスのサッカークラブとしてサンロレンソもまた5大チームとして人気がある。
私が初めてブエノスアイレスを訪れたのは、1985年と40年も前のことだが、街中の路地のあちらこちらで少年たちがサッカーボールを追いかけていたのが印象的だ。
ボールと路地さえあればできるスポーツであるサッカーは、貧しい少年たちにとっても、将来お金を稼ぐプロになることで家族を救いたいというストーリーを生み出していた。
特にアルゼンチンやブラジルと言った南米では、偏見でなく実際にあった現実と言ってよいだろう。

若き日のマラドーナも所属したアルヘンチノスジュニアーズ(第6回トヨタカップに出場)を取材するためだったが、その時にサンロレンソクラブの名も耳にした。
ブエノスアイレスという一都市の中に、応援するサッカークラブが5つもあること自体が、日本人の私には衝撃的だった。
そして何よりこの時代のアルゼンチン経済の超インフレには驚いた。
当時の通貨はアウストラル(1985年~1991年まで)であったが、1990年には50万アウストラルが発行されるなど、通過の価値は安定せずデノミが繰り返された。
1976年から1983年まで軍事政権が長く続き、加えてフォークランド紛争などもあり、多くの一般国民は生活の上での困難を経験していたように思う。
そんな時代に神に仕える道を選び、イエズス会の管区長などを歴任していた教皇フランシスコは、人々の貧しい生活を目の当たりにしてきたのだろう。

2017年に日本でも公開された映画「ローマ法王になる日まで」(2015年制作)が緊急再公開されたので、早速観に行った。
実話を基に制作されたこの映画では、衝撃的な事実を目の当たりにした。
軍事政権下では、対抗勢力への弾圧もひどく、誘拐からの拷問や投獄が行われていた。
ホルヘ・マリオ・ベルゴリオは、大学では化学を専攻したが、32歳で司祭になり神に仕える身として奮闘していた。
反政府分子をかくまったり逃亡の手助けをしたり、弱者や貧しいものに寄り添い助けの手を差し伸べる様をみるにつけ、彼の原点がそこにあると感じた。
そして問題を解決する時には誠意ある対話が重要だとし、そのように実践してきた。
ブエノスアイレスを離れてドイツに学びなおした時に、出逢ったマリアの物語も印象的だ。
ある教会に飾られた一枚の絵には、天使が差し出した長い紐の結び目のもつれを聖母マリアがほどいている様子が描かれていて、ベルゴリオは涙する。
人は誰しも人生において心の中に、もつれを持っている。
それがいかに幾重にもつれた糸でも信心によってほどくことが出来ると、教皇になってからも各所でそう説いていたそうだ。
結び目のもつれとは、不仲や争い、いじめ、差別といったものであり、戦争や紛争こそ大きなもつれと言ってよいだろう。
もつれを解くために対話を繰り返すことの重要性も説いてきた。

さて、教皇とサッカーにまつわるエピソードについても事欠かない。
南米アルゼンチンの一つのクラブの会員であり、教皇になっても継続していた一方で、神に仕える身として信じられないほどの掟を自身に課していたことでも知られる。
2022年にFIFAワールドカップに優勝した母国アルゼンチンとフランスとの決勝戦をテレビ観戦しなかったというのだ。
その理由をバチカン新聞の記事によれば、「マリアにテレビは見ないと誓ったのが理由だ」そうだから、大のサッカーファンでありながら、母国の3度目の優勝を見届けることが出来なくとも誓いは誓いということか。

その世界一になったアルゼンチン代表のリオネル・メッシは、インスタグラムのストーリーに投稿をした。
フランシスコ・ローマ教皇死去を受けて「特別な存在であり、親しみやすかったアルゼンチン出身の教皇……。教皇フランシスコよ、安らかにお眠りください。世界をより良い場所にしてくれてありがとう。あなたのことが恋しい」と冥福を祈った。
約5億人のフォロワーがいるとされるメッシのSNSで、約14億人のカトリック信者の最高指導者への追悼の意が伝えられた。

メッシは2013年に教皇に謁見している。その時に教皇がメッシに述べた言葉がある。
「フィールドでは、大切なのはコミットメントと共通の目標です。」と。
メッシがこの言葉を胸に刻み続けたに違いないと想像する。
いつかマラドーナの様にサッカー界では神の子になると言われ続けたが、2014年、2018年ワールドカップに挑戦して叶わなかった。
しかし、ついに2022年カタール大会で世界一成し遂げたメッシのフィールド上での姿と姿勢には、その言葉の見事なまでの体現があったように思う。

教皇はサンロレンソのクラブメンバー会員番号は、88235であった。
教皇就任の2013年に、サンロレンソに奇跡的な勝利がもたらされた。
クラブ創立から100年以上を経て、初めて南米一のクラブを決定するコパ・リベルタドーレスに優勝し、クラブワールドカップに出場したのだ。
まるでフランシスコ教皇誕生を祝福するかのような出来事だった。

そしてもう一つ。
教皇はローマで現地時間午前7時35分に死去と公式発表されたが、母国アルゼンチン時間だと午前2時35分である。
亡くなったのは88歳・・会員番号は88235であり、本当に奇遇な一致である。
単なる偶然と言えばそれまでだが、教皇はまた一つ人々が言い伝えるであろうエピソードを提供したともいえる。

宗教もサッカーも、人々の生活の大いなる一部になっている国や人々も多い。
教皇はサッカーにも、人々の営みのあるべき姿を見出そうとしていたように思う。
メッシに語りかけた共通の目標を、人類全体に置き換えたら、それは平和であろう。
コミットメントは、それぞれの立場の人が誠意ある対話をもって、きちんと責任を果たすこと。例えば一国の大統領や首相などリーダーが問題解決に奔走することだと私なりに解釈した。
その様な考えを巡らせている時に一つの記事が目に留まり、その中のイタリア紙『Gazzetta dello Sport』のインタビューの中にこそ、教皇の考えの本質が見いだせた気がした。
イタリア発で、片野道郎氏のコラムから引用させていただいた。

https://thedigestweb.com/football/detail/id=95500?open=on (出典:方野道郎氏コラム全文)

2013年の教皇就任直後に、それを報告するためクラブに送った書簡では、会員番号「88235」を引き続き更新する意向を伝えただけでなく、少年時代のアイドルだったストライカー、レネ・ポントーニが1946年のクラシコ(対ラシン)で決めた伝説的なゴールに言及している。愛するクラブにまつわる幼少期の思い出を大事に胸に秘め、事あるごとに自慢するように話題にして語り継ごうとするところは、誰にとっても思い当たる節のある、生粋のサポーターならではの振る舞いである。

2014年ローマで開催されたエキシビションマッチ「平和のための試合(Partita per la Pace)」に寄せたビデオメッセージでは、「この試合はチームとしての結束、そしてそれがもたらす平和こそが強調されるべき場です。チームとして結束することで、それぞれがより人間として成熟し、成長し、より大きな存在となる。チームとしてプレーすることで競争は、戦争ではなく平和の種となるのです」と述べている。
このようにサッカーというスポーツを、対立ではなく統合、闘争ではなく融和、戦争ではなく平和の象徴として位置付け、それを実現するための手段として語るところ、人生や世界をサッカーという枠組みのなかで解釈し語ろうとするところに、教皇である以前にホルヘ・マリオ・ベルゴリオというひとりの人間としての「文化的アイデンティティー」、サッカー愛が表われていた。
 それが最も凝縮されていたのが、21年にイタリア紙『Gazzetta dello Sport』のインタビューで語った次の言葉だろう。最後にその全文を訳出して、教皇に対する追悼に代えたい。
「勝利と敗北は、互いに反対の意味を持つように見えます。誰もが勝つのが好きで、負けるのは嫌いです。しかし、勝利が言葉に言い表せないような震えをもたらすのと同時に、敗北もまたとても素晴らしい何かを持っています。
勝つことに慣れれば慣れるほど、自分が無敵であるかのように感じてしまう誘惑が強くなります。勝利は時に傲慢さを生み、自分は到達したと思い込ませる。しかし敗北は思索を促します。なぜ負けたのかを自問し、良心に基づく省察を深め、自分の行いを振り返る。だからこそ、いくつかの敗北から、実に美しい勝利が生み出されるのです。なぜなら、過ちを知ることによって、雪辱への渇望に火がつくからです。
私が言いたいのは、勝者は自分が何を失っているのかを知らないということです。これは単なる言葉遊びではない。貧しい人々に尋ねてみなさい」

5月7日から、次の教皇を選出する”コンクラーベ”(教皇選挙)が始まった。
コンクラーベの選挙方法もシスティーナ礼拝堂に籠り、外部との接触を断って行う昔ながらの神秘的なものだ。
投票に参加する枢機卿の誰かが全体の3分の2の得票が得られるまで、何回も何日も続けられる。
決定しないときは、礼拝堂の煙突からは黒い煙があがる。
新しい教皇が決まれば、ようやく白い煙が上がり人々に知らしめられる。
こうした儀式自体は保守的であっても構わないと個人的には思う。肝心なのは任命された後の教皇の振る舞いであろう。
フランシスコ教皇は就任演説で「教会は貧しい人々のためのものである」と語ったように、次期教皇に選ばれた方はどのような言葉を掲げるのか。
現在のローマ教皇が政治や社会に対し、どのような影響力を持ち得るのかはわからない。
しかし聖母マリアの宗教絵画の啓示を受けたベルゴリオの様に、社会や人々のもつれを一つ一つほどくような努力をされる方が新教皇に選ばれることを祈っている。

アヴェンティーノの丘にあるマルタ騎士団の館のカギ穴から覗いたサンピエトロ大聖堂。カトリック教徒のみならず、世界の目が新教皇の去就に注目している。

5月8日、コンクラーベでロバート・フランシス・プレボスト枢機卿(69歳)が選出され、レオ14世として227代目の教皇を務めることになった。アメリカ人であるが、南米ペルーに長く居住しペルー国籍も持つ人物だ。
「互いに対話と出会いを通じて橋を築き、世界中の人々が一つの民として常に平和のうちに結ばれるよう助け合いましょう。フランシスコ前教皇に感謝を」と語った。
そして第1次トランプ政権の移民政策など向けたフランシスコ前教皇の「壁ではなく橋を築こう」というメッセージを引用し、対話の重要性を訴えた。
また、「常に平和と慈善を求め、特に苦しむ人々に寄り添いたい」と抱負を示した。
フランシスコ前教皇が愛したサッカーに例えれば、平和実現へのキックオフの笛はなったばかりだ。

-column