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ベッケンバウアー氏への追悼 ~日本サッカーが憧れたドイツの象徴~

ドイツが生んだサッカーの至宝であるフランツ・ベッケンバウアー氏が78歳で亡くなった。
ワールドカップに選手として3回出場し、1966年イングランド大会準優勝、1970年メキシコ大会では3位、1974年地元開催で優勝の偉業を成し遂げ、ドイツ代表監督としても1990年イタリア大会でチームを世界一に導いた。
世界に冠たるドイツサッカーの中でも突出した存在がベッケンバウアーで、その象徴的なカリスマ性から”皇帝”とも呼ばれた。
特に全世界でテレビ放送が拡大していった1960年代後半から1970、80年代に活躍した世界的名手だったので、多くの人に映像でも印象に残る素晴らしい選手だった。

66年の決勝では敵のイングランドの名手、B・チャールトンとのマンマークでの対峙から、20歳の若さで鮮烈な印象を世界に残した。
70年メキシコでは準決勝のイタリア戦で右肩を脱臼しながらもバンテージをユニフォームの上からぐるぐる巻きにして戦い抜いた姿は忘れられない。
後半にハードタックルを受けての脱臼だったが、交代枠が残っていなかったため最後まで戦い抜いたのだ。
延長戦でイタリアのリベラに決勝ゴールを許した時には、ピッチに立ちながらも負傷のせいで何もできなかった悔しさを味わった。
しかし74年ドイツ大会では、当時天才クライフが率いる世界最強と言われたオランダを決勝で逆転勝ちし、優勝した。
オランダが革新的なサッカーで一世風靡したのだが、そのサッカーを打ち破ったベッケンバウアー氏の名言がある。
「強いものが勝つのではない。勝ったものが強いのだ」

時に守備の最後尾から前線まで攻め上がり、キラーパスを供給する”リベロ”というポジションを確立したが、その背景には抜群のボールテクニック、優れた判断力、フィジカルの強さと運動量も兼ね備えていたからであった。
私たちが実際に中学や高校でサッカー部だった時代に世界に名を馳せたスーパースターであったから、なおさら憧れの選手であった。
昭和半ばの日本の体操着といえば生地は綿で、ラインなどデザインもない野暮ったいものが多かったが、ベッケンバウアーが着こなす紺色の、おそらく綿ではないポリエステルか何かの軽い新素材のジャージは、上下とも両サイドには白の三本線が映えて、それはそれは、かっこいいトレーニングウェアで憧れたものだ。
雑誌のコマーシャル写真で見かけたこの上下のジャージを手に入れたときは、それでは全く意味もなさないのだが、スライディングなどで汚したくないとさえ思った。
今ではどこででも入手できる、ドイツ製のアディダスのスポーツジャージだ。

憧れといえば、日本のサッカー自体がそうなりたいと願った姿が、欧州、とりわけドイツのサッカーである。
プレースタイルやスキルのみならず、サッカーを取り巻く環境やプロリーグのあり方なども、ドイツから学んできた。
ドイツを目指し、関係性のあるエピソードは数知れない。
そもそも日本のサッカー強化のためにドイツサッカー協会から派遣されたのが、ドイツ人のD・クラマー氏である。
代表のコーチを務め1964年東京五輪ベスト8、1968年メキシコ五輪銅メダルへの道を切り開いてくれた。
日本サッカーを強くするためにJリーグの前身、日本サッカーリーグ(JSL)設立の提案を強く求め、1965年に創設され日本のサッカーの発展につながった。
そして日本代表やコーチたちは強化や将来の指導者勉強のためにドイツ・デュイスブルクのスポーツシューレ(いわゆるスポーツ学校)を訪れて学んできた。
Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎氏は、1960年に日本代表合宿で、そこに広がる8面もある天然芝のサッカーグラウンドを生まれて初めて目にして感動したという。
Jリーグの誕生により目指した日本のサッカーの環境を整える方向性、地域密着・100年構想は、この時その胸に宿ったものだ。
また日本サッカー協会会長の田島幸三氏も、副会長の岡田武史氏もドイツでコーチ留学をして自己研鑽した歴史がある。
何より、日本人で初めて海外プロ選手契約をした奥寺康彦氏も、目指したのはやはりドイツである。
1977年からドイツ・ブンデスリーガで活躍し、当時は世界最高レベルの舞台で、奥寺は1FCケルンのメンバーで優勝を経験するなど道を拓いた。
そして全盛期を過ぎたであろうベッケンバウアーと、それでも同じブンデスリーガで2年間戦った貴重な経験がある。

そのように時代は移り、日本サッカーにおける憧れのドイツは、今や大変身近なものになった。
奥寺氏以降、多くの日本人選手がブンデスリーガで活躍をし、世界に羽ばたいてきた。香川真司、内田篤人、長谷部誠、大迫勇也、遠藤航、鎌田大地、そして堂安律、浅野琢磨、伊藤洋輝と枚挙にいとまがない。
その数は2部も合わせると延べ50人以上もの選手が所属した。(引退したり、他国リーグに移籍した選手もいるが)
さらに日本全国の、でこぼこの土のグラウンドは、多くの天然芝のピッチにとって代わった。
そして何より2022年カタールワールドカップでは代表がドイツに2対1で勝利し、2023年アウェーの強化試合でも4対1と勝利した。
晩年期はあまり表舞台に登場する機会がなかったベッケンバウアー氏から、今の日本サッカーの成長ぶりに関してコメントをもらうことができなかったのは残念だが、彼の目に日本代表はどのように映ったのだろうか。
そして最近のドイツ代表の不調についてどんな感想を持っていたのだろうか。
やはりサッカーの世界で憧れのドイツの代名詞といえば、ベッケンバウアーであったし、日本人にも大変なじみのある選手だった。
日本で初のワールドカップ生中継(テレビ東京)は1974年ドイツ大会の決勝「ドイツ対オランダ」だったから、多くの日本人は世界一のワールドカップを掲げる姿を目に焼き付けた。蛇足ながら、「あの件は済んだよね?」「ああ、それは別件(ベッケン)バウアーだね」などと寒いおやじギャグも、平成以降ですら耳にしたほどだ。サッカーをあまり知らない日本人にでも、その名前は広く知られていた証だと思う。

野球の大谷翔平がWBC決勝前のロッカールームで語った名言はあまりに有名だ。
「今日だけは憧れるのをやめましょう。憧れだけでは超えられないから」日本の野球は、普段はプロ選手すら憧れるMLBのスーパースターたちを揃えたアメリカを超えて世界一になった。
日本のサッカーは、世界一に4度も輝いたドイツをワールドカップで初めて撃破した。
川淵さんらが初めてドイツのスポーツシューレを訪問した時から、60年以上もの時が流れていた。
そしてそのころドイツ南部のミュンヘン郊外の町では14歳のベッケンバウアーが、世界の舞台に立つことに憧れて、一心不乱にボールを蹴っていた姿が浮かぶ。
どんな世界でも人は憧れることから、その目標を超えようと目指し生きている。そんな憧れの存在が高みを目指す原動力にもなる。
大げさに言えば、それで世界は塗り替えられていくのだと思う。
クライフ、ペレ、マラドーナ、ボビー・チャールトン、そしてベッケンバウアー・・一つの時代にさよならを告げるように往年の名選手たちもこの世を去っていく。
亡くなっても、その人への憧れの思いは消えないが、やはりそれは遠い過去の追憶の中にしまい込まれるのだろう。
また新たな憧れの存在も追い求めるのが人であり、さらなる新しい時代が巡ってくる。

改めてずっと多くの人の憧れだった、ベッケンバウアー氏に哀悼の意を捧げる。

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