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パリオリンピックの煌めき⑤ ~空に浮かぶ気球聖火を眺めながら~

パリオリンピックは競技ももちろんだが、その開催都市パリのアイデアがそこかしこに生きていて、非常に印象的な大会となった。
セーヌ川における開会式は、史上初の試みで世界を驚かせた。
従来スタジアムで行われてきた入場行進や各種パフォーマンスは、セーヌ河畔6㎞をクルージングする中で展開された。
参加選手たちは船に乗り込み、セーヌ川をゆったりと進んでいった。
式の間中、フランスらしい様々な演出が展開し、テレビの前でワクワクし通しだった。
この時期パリでは珍しい雨が降ったのは気の毒だったが、それでも素晴らしい記憶に残るスペクタクルな開会式だったと私は思う。
そして最終聖火ランナーを務めた柔道のテネールと陸上のペレクが点火したのは、何と大きな気球に設えられた聖火台であったのには驚いた。
するとエッフェル塔の特別なステージに現れたセリーヌ・ディオンが名曲「愛の賛歌」を歌い上げる中、その聖火の気球は、美しい光を放ちながらパリの夜空に舞い上がっていった。
何もかもが私の見たことがないオリンピック開会式の演出で、心を揺さぶられた。
"Games wide open= 開かれた大会"を掲げる、第33回夏季オリンピックへの期待が膨らんだひと時であった。

1783年6月5日、1789年フランス革命の数年前、世界初の熱気球実験が成功した。
熱気球を発明したのはフランスのモンゴルフィエ兄弟だ。
暖炉から上がる煙で洗濯物が揺れるのを見て、空気を熱すると重量が軽くなると知った2人は、1782年12月14日、布で作った大きな袋の下で火を燃やし、袋を上昇させる実験に成功したという。高度1,600メートルまで上昇した大きな袋は2キロメートル先の村まで飛んでいき、幽霊ではないかと村人の間で騒ぎになったそうだ。
そして、1783年6月5日ベルサイユ宮殿で、役人たちを前に公開実験を行い、見事に成功。
これにちなみ、後年フランスで6月5日は熱気球の日として制定された。
その後も、ルイ16世、王妃マリーアントワネット同席の天覧実験において、羊、鶏、アヒルを乗せた熱気球を高度460メートル、距離3.5キロメートル、8分間の飛行に成功した。
さらに同年11月21日、世界初の有人飛行に挑戦し、貴族2人を乗せた熱気球は、ブローニュの森を飛び立ち高度90メートルで約25分間の飛行を実現させたそうだ。
1903年、ライト兄弟による「飛行機」が登場するまで120年間の長きに渡り、気球による飛行は大ブームとなったのだ。

こうした歴史背景を理解すればするほど、多くのフランス人は気球へのロマンを強く持っていると共に、開発した誇りも持っていると推察する。
となれば、今回の聖火台のアイデアには大いに納得がいく。
そしてフランス人に限らなくても、鳥のように空高く飛び上がることのできる夢への憧れは、いつの時代で、誰もが持ち続けているものなのかもしれない。
実際に開会式で聖火が気球に乗って空高く舞いがった時には、何とも言えない興奮を覚えた。

パリオリンピック大会では、日中には聖火台の気球は高さ30メートルの場所に浮いており、ルーブル美術館からチュイルリー庭園へと続く長く広い道で主に観覧できた。
さらに毎晩日没後(だいたい21時半以降)は、地上60メートルまで飛び立ち、パリのいくつかの街角からでも、その気球聖火を観ることが出来た。
フランス人デザイナー、マチュー・レーヌールによって考案されたこの聖火台についてだが、炎が燃えているように見えているのは光に照らされた水蒸気で、化石燃料を使用せず電気を用いている。
気球をモチーフとしているが、オリンピック史上初めて実際の火を使わないエコな演出であることも注目された。

気球の歴史、今回の仕様はさておき、オリンピック期間中に、この気球聖火台を一目見ようと多くの観衆がチュルイリー庭園を目指していた。
私もルーブル博物館側から庭園にあるカルーゼル凱旋門の先に浮かぶ気球聖火台を、昼夜共に訪れた。
特にパリの夜空に、オレンジ色の光を放ちながら、ぽっかり浮かぶ気球の聖火は美しく心に刻まれた。
それはオリンピック閉会式を控えた週末の金曜日8月9日だったが、本当に多くの人が公園に殺到して先へ進むのが困難なほど込み合っていた。大混雑でも雑踏の中での危険な要素は一切感じなかった。そして人々は一様に笑顔で幸せに満ちた表情であった。

同じ対象を同じように愛でること、同じ時代、空間、時間を共有して幸福な気分になる高揚感。
それこそがお祭りの持つ魔力であろう。
日本国内でも様々なお祭り、花火大会、縁日など夏の風物詩も素晴らしいものはいっぱいある。
それも、そのお祭りが1年に1回、あるいは4年に1回、場合によっては一生のうちに数回か一度きりの体験だったとしたら。
その体験と思い出を目に焼き付け、心の奥底にしまい込むように人々は熱狂する時がある。
やはりオリンピックは特別なスポーツの祝祭である。
パリの気球聖火を眺めながら、私もこの非日常の現場にいる幸せをかみしめていた。

チュイルリー庭園に設置された気球型の聖火を一目見ようと、連日多くの人々が熱狂的に訪れた。パリの遅い日没21時半以降は60mの高さに舞いがり、幻想的だった。

そして、私は3年前の東京オリンピックの聖火台をどうしても思い出してしまう。
東京大会の聖火台はイタリアの「デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を史上最年少で受賞した世界的なデザイナー、建築家の佐藤オオキ氏が手掛けた。
太陽をモチーフにして、球体を覆う金属の表面が花弁のように開いており、生命力や希望といった意味が込められていた。
とても素敵なデザインだったと個人的には思っている。

国立競技場内の聖火が水素を使用することなど消防法を理由に、開会式後に別の場所に移された。
場所は東京臨海部の「夢の大橋」有明側のプロムナードである。
従来の聖火台の運用は、開会式が行われるメインスタジアムの中に設置されて、大会中競技を見守るというのが常識だった。
古くは1964年の国立競技場スタイルを思い浮かべれば誰しもわかりやすいと思うが、これが2012年ロンドン大会まで継続されていたと思う。
しかし2016年リオ大会で、開会式と陸上などが行われるメインスタジアムが分離設営されたため、リオの街中に聖火台が設置されたのが初めてだったように思う。
そして東京2020でも、先に述べた理由で聖火は分灯されたのだ。
大きさは国立競技場の式典用聖火台の約3分の1で、直径約1.2メートル×高さ約0.9メートルと非常にコンパクトだった。これを台に乗せたので全体の高さは5mほどだったように思う。
国立競技場での開会式で、最終聖火ランナーを務めた女子テニス選手の大坂なおみによりスタジアムの聖火台に点火された後、ランタンに移され、お台場の「夢の大橋」でパラリンピック終了まで24時間ずっと灯り続けた。
りんかい線の国際展示場で下車し、一般の方も徒歩数分で訪れることは出来た。
コロナ禍のため、実際人数制限もありながら多くの人々が聖火を直に見ることは出来た。

聖火の燃料にはオリンピック史上初めて、液体水素が用いられた。
水素は燃焼の際に、温室効果ガスである二酸化炭素を排出しないクリーンなエネルギーが特徴で、東京オリンピックのセールスポイントでもあったが、その聖火台の制作、運用に担当者は血の出る様な苦労をされたことをよく知っている。
東京大会組織委員会の放送部門担当であった私は、聖火を撮影する2台のカメラの設置や、聖火を背景にレポートをする各国放送局のアナウンサーポジション台の位置決定に奔走しており、聖火台チームとも何回もミーティングを持ったからだ。
安全性を担保しつつ橋の上に水素使用の聖火台を無事に設置するだけで、費用も研究も細心の注意も必要であった。

それでも開会まで1年を切った段階でもなお、聖火台の正確な設置場所、そのサイズは揺れ動いていた。
それは、まだあのコロナが大会を危機に陥れることなど想像もしていない時期でもあった。
大まかな設置場所は決定したが、問題は聖火台のサイズであった。
せっかく見晴らしの良い東京臨海エリアの橋のプロムナードに設営しても、近寄らなくては見えないような小さな聖火では訪れる人を満足さえることが出来ないだろうという懸念がつきまとった。
それでも聖火台チームからは予算がもう一切取れないから、映像的に満足できなくともサイズ変更は不可だと聞かされた。
予算運用については、もはや担当者レベルの問題を超えていた。

そして世界に映像を配信するOBS(オリンピック放送機構)の放送責任者からは、聖火そのもののクローズアップ(大写し)をライブ撮影するカメラの設置を強く迫られた。
当初の予定は、聖火台を取り巻くプロムナードと観衆の群れを同時に捉える雰囲気ショットが売りであったし、その現場感をレポートするためのアナウンサーポジションの設置を必須とされた。
このアナウンサーポジションは有明にある武蔵野大学のテラスを貸し切り、20日間のほぼ24時間運営に協力をお願いした。
夢の大橋全体が見渡せて、かつ聖火台設置予定場所を映し出すのに最適な場所であったからだ。
もちろんこうした案件の交渉は10回以上の現場視察や打ち合わせ、そして粘り強い交渉と相手のありがたい理解を必要とした。

結局コロナ禍ということも理由に挙げられるが、海外含む放送局から、大会中にこのポジションを有料で借りるオーダーは一度もなかった。
聖火台周辺を背景にした場合、あの時の聖火はあまりに小さく、残念ながら映像的な魅力に欠けていた。
現場で放送局のプロがフォトジェニックな場所と感じないものは、やはり残念というべきで、いわゆる映えないものだったように思う。
さらに世界の放送局は、人々が集ったであろう聖火台とプロムナードというワイドショット(広い映像)カメラを使用する事はほとんどなく、デザインの大変美しい聖火台のアップだけが世界中に配信された。
ゆえにそこには人の気配は全くなく、競技会場の無観客対応と同じように切なかった。


なんでもお金を賭ければいいものではないと思っている。大きければいいものでもない。
しかし多くの人々と共有し感動するために、どこか遠くからでも望める様なサイズの聖火台は、やはりほしかった。
そして何よりコロナ禍のせいで、そこに集う多くの人々が自由にアクセスし、その聖火を愛でることが出来なかったことこそ、残念であったが仕方のないことだ。

パリオリンピックのお金の使いみちに関わることでは、選手村にエアコンがない、食事の評判が悪かったなどの報道がされた。
メダルも、表面がすぐにはがれてしまった例も聞いた。
また大会中はパリのメトロ料金が通常の2倍に値上げされ、海外観光客からの収入を増やす作戦までとられた。
いやな言い方をすれば、見えを張ることにはお金を使い、アスリートファーストや、観光客のおもてなしに予算を割かなかったのではないかと。
既存の施設を利用した競技会場設営など工夫がされて費用が削減されたともいうが、大会経費全体像を私は把握できていない。
東京大会の予算の使い方が間違っていたとも、パリ大会の予算運用がベターとも思わない。
限られた予算や資源の中で、都市によって違いが出るのは当たり前であるし、収入面の差も考慮しなくてはならない。
全てが完璧なオリンピックなど存在しないのだろう。

それでも少なくとも聖火という祭典のシンボルには、目いっぱいのアイデアと予算も投入したのがパリオリンピックだと思う。
いつの大会も観戦チケットが高額で、かつ入手が困難なオリンピック。
大会中にテレビ観戦しかできなかったとしても、パリの人も世界中から訪れた観光客も、あの美しく幻想的な気球の聖火を現場で直接見ることが出来た人々にとって、その思い出はプライスレスなものになったと確信している。
スタジアムで聖火を見上げる限られた観衆の数と、自由に公園に集う人々の数では、後者が圧倒的に多いに違いない。

そしてパリ大会で、聖火台は一つだけ。
かつては競技を見守るように設置されていたスタジアム聖火は、外に開かれた、多くの人々が愛でられる場所に灯された。
競技場を飛び出したセーヌ川の開会式、普段から普通に人が集う公園に設置された気球型の聖火・・。
オリンピックも少しずつ変貌していくのはいいことだ。
しかしその方向性は、やはり人々の幸福と微笑みに向かうものでなければ意味がない。

東京2020大会の聖火台は、東京臨海部の夢の大橋プロムナードに設置された。コロナ禍でも毎日観客は訪れたが、印象に残った人は少ないのでは。

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