Essay

シリーズ記憶の解凍㉘「1976年インスブルックオリンピック」~デンバー返上から見えた開催都市の憂鬱~

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

冬季オリンピックでは、アルペンスキーなどの会場設営における山間部の樹木伐採が問題となることがある。自然破壊は五輪開催反対派意見の主流にもなる。

夏冬合わせて57大会の長い歴史を持つオリンピックにおいて、開催都市による大会返上という事態は僅か3回しかない。
1940年の夏季・東京と、冬季札幌が開催地に決定しながらも、第2次世界大戦の戦況悪化を理由に日本国政府自ら返上を決めた。
もう一つは1908年夏季大会のローマが、大会経費を巡って政府とイタリアオリンピック委員会が対立したことや、国内火山の噴火により多数の死者を生んだことなどが影響して大会開催わずか2年前に返上し、ロンドンが開催都市になった。
オリンピック招致に名乗りを挙げ、当選し準備をしておきながら、途中でやーめたというのだから、いずれもただ事ではなかったであろう。

そして3回目は、戦後では唯一かつオリンピックが徐々に大型化していくプロセスの中で起きた、開催都市自らの返上事件である。
1976年第12回冬季オリンピック開催都市に選出されたデンバー(アメリカ)は、その開催をあきらめてインスブルック(オーストリア)が代わりに開催した。
大会まで4年を切っていた1972年11月、デンバー(コロラド州)はIOCへ返上を正式に申し出た。
代役を任されたインスブルックは、1964年の第9回大会で開催経験を持ち2度目であったこともあり、短期間での準備を整えて無事に開催にこぎつけた。

そもそもデンバーが返上に至った理由は以下のようなことだったと聞く。
以下の史実は、元NHKスポーツセンター長などを歴任された杉山茂氏の文章を参考にさせていただいた。
(出典:笹川スポーツ財団 「開催地が変更になった冬季オリンピック・・・~1976年大会、デンバーからインスブルックへ~」)

きっかけはアルペンスキー会場の変更などに伴って経費が膨らみ始めたことだ。
1972年札幌でも課題となった、会場予定地のコース設定にための樹木の伐採などの自然破壊に反対する地元民の声が大きくなっていったことも要因だろう。
そしてデンバーでは「コロラドの未来のための市民の会」(CCF=Citizens for Colorado's Future)なるものが結成された。
彼らは環境保護の名目で開催経費が膨らんでいき、市民の経済生活を圧迫すると声をあげ、アピール行動に出た。
さらにCCFの提案でコロラド州において「オリンピックに税金を使用する事への可否」を問う住民投票が実施され、CCFの主張が過半数を占めた。
となれば、州からの資金調達は中止となり、アメリカ政府の援助も見込みが無くなった。
ただでさえ立候補時の総予算は倍以上に膨らんでいたため、開催は不可能と判断したようである。
承知が決定した時にデンバー関係者は、さぞかしお祭り騒ぎであったのではないか。
冬のスポーツの祭典がわが街にやってくるという浮かれ気分は、だんだん憂鬱に変わっていく。
立候補時には全ての会場は選手村から45分以内と謳っていたが、ボブスレー会場はデンバーには設営できず、何百マイルも離れたレークプラシッドで開催するしかないとの報告がIOCに上がった。さらにミュンヘンのテロ以降、大会警備費が膨らみすぎて組織委の予算を圧迫していく。
いずれも、どこかで聞いたことがあるようなストーリーだ。

そもそもデンバーはアイスホッケー、アメリカンフットボール、バスケットボールの有名プロチームが存在し、スポーツを愛する都市と言ってもよいだろう。
1976年は「アメリカ建国200周年」で、しかも「コロラド州成立100周年」を祝う一大イベントであったはずだ。
さらに1972年札幌オリンピックの閉会式では真駒内の競技場の電光掲示板には「DENVER’76」の文字が映し出されて、アメリカ国歌まで吹奏されていたのだから、返上という撤退は苦渋の選択であったに違いない。
オリンピックを開催することで、その都市の知名度は信じられないほど上がるはずだ。
日本人にとってもデンバーと言えば、ジョン・デンバーの「カントリーロード」(邦題・故郷に帰れば)の楽曲や、スポーツ好きならアメリカンフットボールの”デンバーブロンコス”が思い浮かぶかもしれない。
それでもコロラド州デンバーが、どのような街で、アメリカのどの位置にあるかを正確に知る人は少ないだろう。
その後デンバーが世界中の中で活字になる機会は、めっきり無くなった。

そして杉山氏が参考に一読を、と勧めてくれた一冊の本に残された文章が強烈な印象を私に残した。
先の杉山氏の文章の中でも、ご本人も1973年当時は知らなかったが、この1983年発行の以下に紹介する本を読んで初めてその事実を知ったと語っているものだ。
その本とは、元IOC会長であったロード・キラニン氏の回顧録「MY OLYMPIC YEARS」(日本語書名「オリンピック激動の歳月」訳・宮川毅、ベースボールマガジン社)である。
「コロラド」という地方雑誌の1973年1月に寄稿された、ある一市民の一文をキラニンは紹介している。

「私(寄稿者)は、オリンピックそのものに反対投票したわけではない。政治家と尊大な組織委員会に反対したのである。
彼らの独りよがり、秘密主義、そして一攫千金を目論んで便乗しようとしたプロモーターたちに我満ならないので反対投票をしたのだ。
それにしても不幸なことだと思う。もし開催できるものなら、オリンピックはすばらしいものになったに違いない。
私が生きている間にこんな機会は二度と来ないと思う。」

1976年、今からおよそ50年も昔の時代におけるオリンピック開催に関する一般市民の心持ちを知るにつけ、現在のオリンピックの抱える問題を思い起さずにはいられない。
政治家への不信、密室での談合、都合の悪いことは隠蔽、そして立場を利用して営利主義に走るものたち。
オリンピックを取り巻く環境は当時から一切変わっていない、いやさらに肥大化し、金満化していってはいないか。

先のキラニン氏の回顧録の中で、IOCはデンバーと協定こそ結んでいたが、法的な意味での契約は結んでいなかったという。
それ以降は開催都市とIOCは法的効果を持つ契約を結ぶことになったと記されている。
そこで思い起されるのが、東京2020大会のことである。
世界規模のパンデミック、コロナ禍においてオリンピックは果たして開催できるのかどうか。
その時、開催返上含めた大会中止の可能性まで議論されたと思うが、その場合に東京がIOCに違約金を払うのかどうか等が大きな話題にもなった。
それこそ日本国民の多くが認識するようになった「開催都市契約」なるものが、違約金や賠償金の支払い義務などの根拠になっているのいないのとメディアを賑わした。

いずれにしても、デンバーの返上の背景を知るにつけ、開催都市の地元に暮らす人々の「民意」というものがいかに大切かつ、大きな影響力を持つという事実が興味深い。
欧州でもスイスなどレファレンダムという住民の総意を取り付けないと、大会招致すら実現しない国もある。
「レファレンダム」 とは、 “referendum” という英語由来の言葉で、国民投票や国民表決を意味する。
国民投票とは、民主主義制度の一つで、国民の直接的な投票によって、国家的な議案の意思決定を行うことだが、日本では憲法改正の時にのみ採用される。
あとは地方自治体において住民投票が行われることがある程度である。

東京2020大会は東京都知事と政府の強い意向で開催を推し進め、コロナ禍における開催の是非も、国民や都民の民意を問われる仕組みやルールもなければ、その意志すらくみ取る姿勢もなかったように思う。
民意というのがなかなか厄介で、日本の場合、民意で選ばれた政治家がリードして大会開催を決めたりするのだから、それはもう民意の集大成としての総意だろうという人もいる。
その一方でこうした決定過程の中では必ず反対派はいるものだ。
だからこれらの意思決定にもし投票がなかったとしても、それ相応の反対意見をも聞き入れたうえで、少しでも改善要素があるなら取り入れるべきだろう。開催するにしても民意の反映並びに共感を呼ぶという姿勢こそが大事な気がする。
いずれにしても東京2020大会は、前代未聞の無観客の中、それでも無事に大会を終えた。
そして喉元過ぎればではないが、オリンピックを開催してよかったという世間の意見が過半数以上あったのも事実だった。
もちろん個人的には7年かけて組織委員会の一員として働いたから、正直に言えば中止にならなくてよかったという思いだった。

さて、話を1976年の冬に戻そう。
とにかく短い期間に開催を準備したインスブルックには拍手を送るべきだろう。
オーストリア、チロル地方の小都市は1964年に一度開催したことから、当時の施設を有効利用する、現代でいうところのレガシー(遺産)を最大に活用したと言えるだろう。
それだけでなく、日常的にスキーリゾート地としても有名かつ施設も充実している都市だからこそ、そうしたことが実現できるともいえよう。
2回の冬季オリンピックのみならず、1984年と1988年に2大会連続で冬季パラリンピック、(当時はオリとパラは別都市開催であった)、2012年に冬季ユースオリンピックが開催された。
さらに2度の五輪で使用されたベルクイーゼルシャンツェでは毎年1月にスキージャンプ週間の第3戦が定期的に開催されている。
豊かで美しい自然との共生の中で暮らす人々は、オリンピック開催地という名誉だけを求めているわけではないのだろう。
生活の中にウィンタースポーツがしっかりと溶け込んで、楽しみの一つとなる文化がきっとある。
だから私の勝手な想像ではあるが、IOCからの緊急の要請に都市が憂鬱を感じることはなく、むしろ名誉として受け取ったのではないだろうか。
残念ながら私はオリンピックどころかプライベートでもこの地を訪れた経験はないが、行ったことのある知人に聞くと、それは冬のスキーシーズンでなくとも壮大な山々に囲まれた町並みは素敵だったとのことだ。
ちなみに日本の長野県・大町市とも姉妹都市契約を結んでいる。

インスブルック大会での日本選手団の成績は、残念ながら特筆すべきものはなかったように思う。
前回の札幌大会はホスト国として、ジャンプ70m級で金、銀、銅を独占する華々しい活躍が目立ったが、この大会でメダル獲得はゼロであった。
スピードスケート女子500mで長屋真紀子が7位であったのが最高成績だった。(当時は6位までが入賞)
それが、今回私がインスブルックの大会自体をテーマにしなかった理由ではない。
都市が覚悟を持って招致したはずのオリンピックが挫折することもあるという現実、それが民意によって左右されたという歴史にこそ注目したかったからだ。

元IOC会長キラニン氏は1983年に出版した回顧録において、デンバーの開催返上の裏にあるエピソードのみならず、モスクワ大会のボイコット、商業主義にひた走るきっかけとなったロサンゼルス大会の裏話などもいくつか書き残した。
彼の回顧録のタイトル通り、オリンピック開催にまつわることでは”激動の歳月”は間違いなく流れていただろう。
そしてその激動の歳月を、東京もまた経験した。
2013年から7年かけて準備してきたものが水泡に帰するかもしれない・・準備プロセスの中でも課題は多かった開催都市の憂鬱は頂点に達していた。
全世界を襲ったパンデミック、コロナ禍の影響で、2020年3月に1年の延期が決まり、その後もパンデミックは収束の気配をみせなかった。
延期ではなく、中止すべきだったのではないか。
今からでも返上、中止をIOCに申し入れるべきだろうという世論もあった。
しかし政府も東京都も組織委員会も、何よりIOCも中止を選択しなかった。
史上初の大会延期から、2021年に入って、海外来場者の受け入れ中止、そしてついに大会はほぼ無観客で開催されることになった。
現代では放送通信技術の発達や放送技術の革新もあり、多くの視聴者がテレビや配信を通じてオリンピックを楽しめる。
コロナ禍だから自国や自宅にいて、感動に立ち会えばいいではないかという人もいた。
しかしアスリートたちが努力し精進してきた成果をパフォーマンスする場所に、歓声も応援の声も響かなかった。

この東京2020のエピソードを、IOC バッハ会長(当時:2013年~2025年会長職)はどのように回顧するだろうか。
また2025年3月20日に誕生する新会長は、これからのオリンピック開催問題をどの様に対応していくポリシーを持っているのか。
IOCは、近い将来に直面するであろう地球温暖化や各地の戦争危機、新たなパンデミックの発生、開催国負担増大、その他大会の多様性、人権確保などにどのように対応していくのだろうか。
オリンピックの未来につながる総合的な視点から検証するコメントを、正直な意見として聞いてみたいのは私だけだろうか。
そしておよそ50年前から繰り返されるようなオリンピック開催における課題にきちんと向き合ってほしい。
本当は一生に一度あるかないかの幸福感を、開催都市の人々が心底感じられることこそがオリンピックの意義であると思うのだが、いかがだろう。
デンバー返上は、単なる一都市の事情で起きたことではない、歴史の参考書として捉えなくてはならないと私は強く思う。

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