Essay

シリーズ記憶の解凍㉗「2016年リオオリンピック」~東京2020への足音が聞こえた日々~ (前編)

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

時の首相が何とスーパーマリオに扮して会場に現れた!
2016年8 月21 日、日本の真裏にあたるブラジルの都市、リオデジャネイロの真夏の夜の出来事だ。

南米大陸で初めて開催されたリオオリンピックは、2016年8月6日に開会式が行われた。
そして16日間の祭典のフィナーレを迎えた閉会式では、次の開催都市へのハンドオーバー=引継ぎというセレモニーが行われたのである。
リオから東京へ引き渡しの場面では、開催国の首相である安倍晋三氏(当時)がスーパーマリオになって渋谷からリオまで土管を通じてワープ移動する設定で登場し、全世界に向けてサプライズを起こした。
また開催都市の知事である小池百合子氏は、あでやかな着物姿で五輪フラッグを打ち振ったのだった。
そう4年後、リオの次はいよいよ東京2020大会が待ち受けていた。

1964年アジアで初の東京オリンピックが開催された日本は、高度経済成長の真っ只中であり、戦後から19年を経て目覚ましい復興を成し遂げたご褒美をもらったかのように、国民全体が歓喜に沸いていたという。
あれから56年の歳月を経て、再び東京にオリンピックが帰ってくることになったのだから、国民的な関心事となっていた。
特に前回の1964年オリンピックを経験した世代(年齢でいくと60歳以上の方)にとっては、新幹線開通、首都高速道路新設といった日本が劇的に変わっていく様子を見た興奮が忘れられないという。
だからこそ2度目の開催で新しい日本が生み出されるきっかけとなるのではないかという、根拠のない希望すら生み出していた。
そのノスタルジーだけではなく、今再びオリンピックを開催する事への期待、新しいレガシーの誕生への希望を抱いている若い世代も多くいたようにも思う。

2013年ブエノスアイレスでのIOC総会で、当時のIOC会長であるロゲ氏が高らかに「TOKYO!」と読み上げた瞬間を、多くの日本人が興奮と共に覚えているだろう。
開催都市決定のプロセスが変更された現在では、IOC総会での選挙による決定からの発表といったスリリングな瞬間はもう味わうことはない。
いずれにせよ、イスタンブールやマドリードなどの他都市と争った結果の招致決定に喜びの輪が広がった。
実は2016年大会にも東京は招致に名乗りを上げていたが、リオに敗れていた。
それだけに招致に長く関わった関係者にとって、開催決定の喜びはひとしおだったろう。

そのような背景の中で、リオ大会のあった2016年前後、東京2020に関する話題は毎日のように何らかの形で提供され続けた。
果たして大会は成功するのか、東京いや日本にとって新しい何かを生み出す大いなるきっかけになるのだろうか。
開催反対派もいる中、それでも多くの人々が東京2020に注目し期待をしていたのは事実だ。

人生でたったの2回目、あるいは一生に一度であろうと観戦チケットの抽選に応募する人たちの熱気にも驚かされた。
本当は陸上100m決勝も観たいが、今まで観戦したこともない競技でもなんでもいいからチケットが欲しいという親戚がいた。
開会式のチケットが高い席で30万円にも関わらず応募し、当選したと喜ぶ友人もいた。
一生に一度だから惜しくもないと、その友人は言っていたのを思い出す。

オリンピック・パラリンピック開催とは国家の一大プロジェクトともいえるものだ。
開催都市は東京を中心とするが、全世界から200か国以上のアスリートのみならず、関係者、観光客をきちんと受け入れる体制をつくることは国を挙げて取り組まなければ成功しないことは明白だった。
そして招致のキャッチフレーズは「おもてなし、OMOTENASHI」だった。
滝川クリステルさんのゼスチュア入りのプレゼンテーションも大きな話題となった。
となれば、いかにして開催都市として多くの人をもてなすか?これもまた大きなテーマとして具現化する必要があった。
多くの外国人を日本に受け入れることへの周到な準備は、国を挙げて取り組まなければ実現しない。

そして開催に関わる全ての案件に対する正式な対応は、国(内閣官房を中心に)、東京都、そして組織委員会の3者によって進められることになる。
まず国を代表して、安倍晋太郎首相は、復興五輪を掲げていた。
国の内外に、福島原子発電所は「アンダーコントロール」すなわち、もはや安全だと言い切って安心安全を強調した。
オリンピック・パラリンピックの準備をするために、毎大会必ず開催都市では組織委員会が発足する。
東京は2014年4月に発足し、その年はわずかスタッフ100名程度からのスタートであった。
この段階から東京都職員の組織委員会への出向派遣は4割であり、開催都市である東京都知事の意向も大いに注目されていた。

2015年に組織委員会が掲げた大会ビジョンは以下である。
公表されているものだが、もはや覚えている人はまずいないだろう。

”スポーツには世界と未来を変える力がある”
1964年の東京大会は日本を大きく変えた。2020年の東京大会は「すべての人が自己ベストを目指し(全員が自己ベスト)」、「一人ひとりが互いを認め合い(多様性と調和)」、「そして未来をつなげよう(未来への継承)」を3つの基本コンセプトとし、史上最もイノベーティブで、世界にポジティブな改革をもたらす大会とする。

組織委員会は、52のファンクショナル・エリア(FA)と呼ばれる、大会運営に必須の項目の専門チームから構成された。
このファンクショナルエリアという組織構成は、IOCが発案したもので、いずれのオリンピック大会でも準備されなければならないものである。
ごく簡単に組織例を挙げよう。
競技会場やメディアセンターなどのインフラ準備工事に関してはVNI(べニュー・インフラストラクチュア)、大会会場運営はVEM(べニューマネージメント)、各国競技団体の窓口はSPT(スポーツ)、輸送はTRA(トランスポーテーション)宿泊関係はACM(アコモデーション)、会場を含む全体警備はSEC(セキュリティー)などである。
つまりは競技会場をきちんと用意し、スポーツの大会としての運営もきちんとこなし、各競技のルールに沿った準備を整え、関係者のみならず観客の移動について確実か打つ安全性を確保し、外国から来る関係者や観客のホテルも用意し、当然のことながら大会中の全ての安全を保障するということだ。
組織委員会には東京都職員、23区区役所職員はじめ、民間から大会スポンサー関連企業の多くが出向派遣された。
当然みんな出向元企業の給料をもらい派遣されていたが、大会成功に向けて一致団結し、協力するという精神であったのは間違いない。

放送準備に特化したFAとしては、BRSと呼ぶチームが結成された。
BRSとはブロードキャストサービスの略であり、2014年7月からNHKから3名、民放から2名が派遣されて、まずは業務にあたることになった。
BRSの業務目的は、「世界最先端の放送技術と通信技術を使いオリンピック・パラリンピックの感動および日本の美しさと魅力を世界中に配信できるように、オリンピック放送機構(OBS )とライツホルダー(RHB)に最高の環境が確実に提供されるようにする。」と規定された。
そのためには、52のFA と協議しながら、組織委内の統合(インテグレーション)をリードする、平たく言えば放送関連案件整備を各FAにお願いし、まとめ上げる必要があった。
現代ではテレビオリンピックと呼ばれて久しい。
全世界200か国以上の人々がテレビ放送を通じて感動を共有し、その放送規模は年々拡大し、放送権者(RHB=ライツホルダー)の支払う放送権料も莫大なものになっていた。
実際、IOCの収入構造では約半分が放送権料収入であり、IOCから組織委への分配金も23%(招致プランの段階)を占めていた。
それだけに放送要件への要求条件は厳しく、時に組織委の予算にもインパクトを与える要素が予見された。

それぞれのFAに対してのIOCが定めた開催要件を記したテクニカルマニュアルというものがあった。
いわば、準備のための教科書であり、時に組織委側が用意しなくてはならない要件が明確にされているものもあったが、そうでないものは今後の協議に委ねられるものもあった。
ほぼ全員がオリンピック、パラリンピックの大会運営など経験したことがない。
各方面から派遣されたその道のエキスパートと言えども、未知のことも多く、真摯に学ばなければならなかった。
ましてや東京都職員で人事異動として組織委員会に出向している方々も多く、スポーツ大会の経験もないとか、スポーツ運営基礎知識についても全くの門外漢もいたのだ。

さて派遣が開始された2014年から、放送に関する準備だけでも数々の大きな課題が生じていた。
いずれも新聞などで大きく報道された出来事ばかりであるから、遠慮なくここに記しておきたいと思う。
まず国際放送センターのインフラ提供についてである。
招致段階で提供した国際展示場ビッグサイトに設立する国際放送センターの敷地面積では、OBSの要件を満たしておらず、場所は容認するが面積を増やすことが絶対条件だと言われた。
それを実現するには、ビッグサイト敷地内に配置される予定だった3競技の競技会場を他に移動するしか方法がなかった。
結局、レスリング、テコンドー、フェンシングの会場は千葉県の幕張メッセへの移転が決まった。
必要案件、特にIBCの必要面積は過去大会のマニュアルにも記載されていたのだが、招致プランではIBCの厳密な設置条件をクリアしないまま、配置計画を実行しようとしていたわけだ。
しかし全世界の放送局が集結し、OBSが制作する拠点としての規模を縮小することは致命的であり、IOC、OBSは決して容認することは出来なかったのである。
そのことで国際展示場の大会用敷地はほぼ独占となり、各種展覧会が開催不可能になる保障問題などで、東京都を中心に大いに揺れたのだった。

さらにセーリング会場の変更を迫られる事態も起きた。
当初予定されていた東京湾にある若洲ヨット練習場は、レース海面が羽田空港の航空管制圏内にあった。
全世界向けの国際信号を制作するOBSにとってヘリコプターによる空撮や放送制作システムの必要性から、このエリアではヘリコプター飛行が規制されるために会場としてはNG という指摘が強くなされていた。
東京都、セーリング協会を中心に粘り強い交渉が続いたが、最終的に1964年のレガシー会場であった神奈川県・江ノ島ヨットハーバーへ移転された。
テレビ放送制作に関わる必要要件から、会場の見直しを迫られるという事実を東京都、組織委員会は思い知らされたのだった。

組織委員会全体の観点では、2015年に大きな問題がたて続けに発生した。
7月にまず国立競技場デザインの白紙撤回となった。
2012年、新国立競技場のデザイン案の国際コンペで最優秀に選ばれたのは、イラク出身の女性建築家、ザハ・ハディド氏のものだった。
その後、ザハのデザインをもとに新国立競技場の設計が進められるも、2015年に安倍首相(当時)により白紙撤回が発表された。
撤回後も、ザハは新国立競技場のデザインに関わろうとしたらしいが、2016年に心臓発作により65歳の若さで亡くなった。
白紙撤回の理由としては、予算が膨れ上がったことや世論の反対が高まったことと言われた。
明治神宮外苑が敷地だったことで、景観の観点から文化人も反対の声をあげていたのは事実だ。
ザハ案の斬新なスタジアムデザインのイメージは東京のオリンピック招致にもプラスに働いたとも言われていたが、あまりに巨大であったし、先進的過ぎたのかもしれない。
やり直しコンペで、2016年リオ大会の前には隈研吾氏のデザインが採用され、すぐさま建設が着手された。

さらに9月にはオリンピック・パラリンピック大会ロゴ作成について、盗作騒ぎからのやり直しという前代未聞の事態が発生した。
コンペを経て2015年7月14日に盛大に発表された大会ロゴは佐野研二郎氏によるものだった。
しかしベルギーのデザイナーのロゴとの酷似の指摘などから、9月1日に採用中止が決定。
2016年4月にやり直しコンペで、野老朝雄氏の大会ロゴが正式に決定したのだが、この間のごたごたは世間をにぎわしてしまった。

7年半在籍した大会組織委員会の名刺。左上のロゴは招致の時に使用していたものだ。右上は幻となったデザインのロゴで、この名刺を私は僅か数日しか使用しなかった。

このように2016年リオ大会前後の数年は、東京大会への準備に日本中が大騒ぎだったと言っても過言ではないだろう。
2013年に招致が決定した時の東京都知事は、猪瀬氏であった。しかし彼はその年の12月に徳洲会事件関与で辞職した。
翌2014年2月の都知事選挙で初当選した舛添要一氏は、オリンピック準備推進という大きな業務を抱えていたが、これまた政治資金不適切支出などの理由で2016年6月に辞職。
どちらも任期半ばでの辞職で、オリンピック開催都市としての政治的リーダーがころころ変わってしまったのも、よくない意味で注目を集めた。
そのような状況を受けて2016年7月31日の都知事選に小池百合子氏(当時64歳)が初当選し、彼女がオリンピック開催に関しても政治的リーダーの中核を担うことになった。
そして小池氏の最初の仕事が、リオオリンピック閉会式における開催都市ハンドオーバーの旗振りとなったわけだ.

東京大会へのワクワクするような期待と高揚感は、やがて準備の段階に伴う課題やチャレンジのせいで、少しずつ憂いの感情も伴うように変わっていったのも事実だ。
それでもあのオリンピックを東京でもう一度成功させたい、全員が自己ベストというキャッチフレーズ通り、組織委員会のスタッフたちは一丸となって立ち向かっていったことも思い出す。
2014年から満を持して発足した組織委員会に属した者たちにとっては、東京2020の足音が聞こえた日々こそが、かけがえのないものだった。
2016年・・東京2020までのカウントダウンはわずかに4年だった。
組織委員会のスタッフたちは日々準備を進めていたが、オリンピックの運営そのものを目で確かめて学ぶことは必要であった。
開催準備の修行の一環ともいえる、最初で最後の現場体験視察のためのリオ行きが迫っていた。
IOC やOBSが用意した準備マニュアルの一行に記載されただけでは完全に理解できない要件の真の意味を知るための本番研修をすると共に、52のFA全体が同じ意識とコンセンサスを得ることも重要だった。
東京からニューヨークを経由してリオデジャネイロへと約24時間、長い旅はこうして始まった。

こちらに行けば必ず辿り着く・・2016年、リオデジャネイロの街角で大会会場の道筋を案内してくれるボランティアの女性たち。誰しも輝く笑顔が印象的だった。


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