記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。
2024年の11月下旬に長野県・塩尻市にある「木曽・くらしの工芸館」を訪れた。
「木曽くらしの工芸館」は、国道19号沿いの道の駅「木曽ならかわ」にあり、塩尻市に合併する前の楢川村の名産の漆器の展示と販売を行う施設である。
東京方面から来ると、塩尻市は木曽路の玄関ともいえる場所で、さらに南に向かうと妻籠などの宿場町がある。
この時期に街へ向かう道中は、紅葉で枯れた黄色やオレンジ色で美しく染められている。
島崎藤村が小説”夜明け前”の中で「木曽路は全て山の中である」と書いたように、恐ろしいほどの山々に囲まれた素朴な街並みが広がる。
とりわけ初冬の信州は寒く、私が訪れたときは日曜日にもかかわらず観光客もまばらであった。
そこには1998年長野オリンピックに採用されたメダルデザインが展示されており、実際のメダルが、金・銀・銅とも拝観することが出来た。
道の駅は奈川のとうじそばを食べに行った帰りに寄っただけなので、展示品など事前に調べていたわけではなかったから嬉しい偶然だった。
そして長野冬季オリンピックのメダルの、個性的かつ優雅なデザインを思い出しながら26年も前の日本で開催された2度目の冬季オリンピックの記憶が一気に蘇った。
男子スピードスケートで清水宏保が金メダルを獲得し、そのメダルを誇らしげに掲げた映像。
豪雪の白馬ジャンプ場で繰り広げられた日本スキージャンプ陣の死闘。
原田雅彦が船木和喜に託した金メダルへの思いが、声にならない叫びとなってこだましたあの日。
表彰台で栄光のメダルを掲げた数々のスポーツシーンがフラッシュバックした。
やはり日本で開催したオリンピックにおける日本人アスリートの活躍は格別である。
メダルとはもちろん獲得したアスリートの唯一無二の思い出と共にあるのだろう。そしてそれは永遠の記憶となっているに違いない。
しかし一般人の場合、その時々の大会前後こそメダルデザインなどに関してのメディア報道を受けて話題にした程度で、多くはメダルのことなどとうに忘れてしまっている。
それでも今回メダルというものを通じて、素晴らしい大会の一コマが浮かび上がると共に、私の放送人としての長野での日々もまた思い出されてきたから不思議なものだ。
72の国と地域から約2,300人の選手が参加し、7競技68種目が行われた長野オリンピックが開催されてから、既に27年の歳月が流れた。
期間中は延べ144万2,700人の観客が集まったといわれており、美しい信州の街は大いに賑わったのものだ。
長野県長野市は、東京や札幌のような大都市とは言えないだろう。
長野市と言えば、善光寺、お蕎麦が浮かぶだろうが、特に特徴的な名所や建物が顕在しているとは言い難かった。
しかしまだ40歳であった私には、知識不足や、自分の興味があるもの以外への関心が薄かったことで、この地の生み出している伝統的な文化に疎かったと白状しよう。
それでも、大会に採用されたメダルデザインは目を引くものであり、日本ならではの漆を使用したアイデアには当時も興味を抱いた。
IOCは全世界のメディアに対して大会のメダルを撮影する指定日を設けて取材をする機会を作っているから、国際放送センターには多くのカメラクルーが押し寄せていた。
大会期間中は、メディアが大きな関心を寄せる話題の一つであったことだけは間違いないし、それは今でも変わらない。
一般の方では、メダルのデザイン・材質などは大会ごとに違うものだということを気に留めている人は少ないだろう。
オリンピックメダルと言えば、何となく月桂冠と女神のイメージが強いかもしれない。
おそらく1964年東京オリンピックの資料写真による強烈な印象のせいかもしれない。
事実、夏のオリンピックは1932年アムステルダム大会から2000年シドニー大会まで、表側のデザインは全て同じものであった。
第1回アテネ大会ではギリシャ神話の最高神ゼウスが大きく描かれていた。
その後、メダルのデザインは毎回変更になったが、1928年アムステルダム大会から2000年シドニー大会までは同じデザインが採用され続けた。(1956年大会の馬術競技用のメダルを除く)
そのデザインとは、勝利の女神「ニケ」が右手で勝者に授けるオリーブの冠を掲げているもので、あまりに有名だ。
女神ニケの背後に描かれている競技場は、イタリア・ローマのコロッセオであり、デザイナーはイタリアのジュゼッペ・カシオリである。
メダルの裏側は、古代オリンピックの勝者が人々によって担がれているデザインで、こちらは1968年メキシコシティー大会まで続く。
それ以降、裏側は大会ごとに異なるデザインになった。
日本人にとっては、1964年の東京大会のメダルの記憶が鮮明なのかもしれないから、長く継承された表デザインが勝利の女神ニケのものが当たり前と思っているかもしれない。
夏季大会のメダルのデザインが大きく変わったのは2004年アテネ大会だった。
それまで斜め横を向いて腰掛けていた勝利の女神ニケが、立って正面を向くようになった。
背中の翼も大きく描かれるようになり、躍動感が増した。背景には競技場が描かれているが、以前のコロッセオではなく、第1回アテネ大会で使用されたパナシナイコス競技場に変更されている。
このデザインはそれ以降の大会でも続いて使用されており、2020年東京大会もこのデザインが採用された。この2004年以降のメダルの裏側には、大会エンブレムが描かれている。
そして冬季オリンピックのメダルのデザインは、夏季とは異なるものでなければならないという規定がある。
言い換えれば、大会ごとのメダルデザイン採用の自由度が高く独自性を打ち出すことが出来るということだ。
実際、冬季のメダルデザインは夏季大会とは異なり、同じデザインが続くことがなく、大会によって大きく異なっている。
改めて長野オリンピックのメダルについての話である。
木曽漆を使用し、蒔絵、七宝焼きという日本の伝統芸術が一つになった。
表側の上部には蒔絵で日の出の風景が、中央には6色を使った七宝焼きで大会エンブレムが描かれている。
左右には月桂樹の枝が飾られ、下部には「NAGANO1998」の文字とオリンピック・シンボルがバランスよくあしらわれている。
裏側の蒔絵内に描かれているのは信州の山並みに昇る朝日であり、下部には、各競技のピクトグラムが刻まれている。
開催地の個性、独自性を伝えるため、長野1998のメダルには漆(木曽漆器)を採用し、装飾には七宝と精密な金属細工、蒔絵の技法が使わたのだ。
とりわけ裏面は漆が大胆に使われ、木曽地方の工芸家たちによって個別に作られた。
メダルの直径は80mm、厚さは9.7mm。重さは金メダルが256g、銀メダルが250g、銅メダルが230gという細かなデータも改めて資料で確認することが出来た。
独自性を許されているということは、一方で個性をどのように打ち出すかということでもあり、制作の過程では苦労も多かったのではないだろうか。
制作発案者の一人であり、この漆メダルを考案したのが、塩尻市木曽平沢で漆器店を営む漆職人、伊藤猛さんである。
伊藤さんは蒔絵の人間国宝である大場松魚(しょうぎょ)氏のもとで漆の技術を学び、その後、家業の「まる又漆器店」を継いで、漆職人としてスタートした。
その過程で漆の新たな可能性をもとめて、セイコーエプソン社(当時の諏訪精工舎)とともに金属に漆を定着させる技術を開発したという。
こうして長野オリンピック開催前にその技術を生かしたメダルを考案し、オリンピック史上最も美しいと評された「漆メダル」が作られたのである。
伊藤猛さんの個人ブログには以下のようなコメントが記されており、冬季オリンピックのメダルに関する開催都市それぞれの独自性やユニークなアイデアが、様々なメダルデザインを生み出してきたことを改めて確認することが出来る。
私が『1998年の長野オリンピックメダルを漆で!』との夢を描いたのは、その前回大会1994年のノルウェーのリレハンメルオリンピックのテレビ中継を見ていた時でした。リレハンメルオリンピックメダルは自然との共生をかかげ、ジャンプ台から切り出した石を素材にした素晴らしいメダルでした。そして前々回のフランス アルベールビルではフランスらしくクリスタルのメダルでしたから、次の長野では「日本を代表する工芸である漆だ!長野県の精密加工技術を融合したメダルをつくろう!」と考えたのは、今振り返ると至極当たり前のことのように思えます。金属に漆を塗る仕事のノウハウはすでに出来上がっていたし、金属に漆を塗布することは世界のどこの国にメダルがわたっても、木製のように形状が変化する心配はない。さらには、漆と金属とを組合わせることによって、日本らしい素晴らしい漆メダルが出来上がると想像出来たからです。
訪ねた木曽漆器館の展示物案内には「400年とも言われる歴史を持つ木曽漆器と(長野県の精密機械のメーカーである)セイコーエプソン社の最新技術の融合で生まれた、長野県ならではのメダルと言えます」と記されていた。
ちなみに「漆塗り」は、漆(うるし)の木の樹液を精製してつくられる天然の塗料を、丹念に塗り重ねる作業を指す。
漆の木はウルシ科に属する落葉樹で、幹に傷をつけて樹液を採取するらしいが、一本の木から、樹液は年間60〜250g程度しか採取できないので、大変貴重なものだという。

そういえば夏季オリンピック東京2020大会では、不要になった携帯電話などの金属を再利用してメダルを制作したことで話題になった。
リサイクル、エコロジーを体現するオリンピックの一つの象徴として、素敵なアイデアであったことも思い出された。
2021年にコロナ禍で無観客開催など苦しみの中で開催された東京大会は、2024年パリ大会の華やかさと比較されて見劣りがするような意見も時に聞く。
しかしメダルに関して、パリではすぐにメダルのメッキが剥がれてぼろぼろに劣化するなどの事象が相次いだ。
少なくとも東京大会でそのような悪評は聞かなかった。
選手への称賛のシンボルともいうべきメダルに創意工夫をもって、心血を注いで制作する姿勢をみせたことを東京大会は自信を持ってもいいだろう。
すなわち、そういった日本人のメンタリティ―に誇りを感じてもいいとさえ思うのだ。
思えば1998年冬の長野でおよそ1か月を現地で過ごした私は、やはり日本人として自国開催のオリンピックに誇りと幸せを感じていた。
”ナイスイン村一番”という、いかにも地方都市らしいネーミングの宿泊ホテルと国際放送センターとの往復の日々であったが、充実していた。
日本人選手の活躍ももちろん嬉しかったが、72か国もの外国人選手を応援しに来日した多くの外国人観光客を見かけるだけで、ホスト国としての誇りすら感じていた。
長野市のシンボルともいえる善光寺では多くの外国人が参拝をしていて、大会終了直後に彼らから素晴らしいオリンピックであったと伝えてもらった時には涙が出そうになったほどだ。
日本の放送界も全局が総力を挙げて長野オリンピックに取り組んだ。
世界に向けた国際信号制作をするためにORTO98(オリンピック・ラジオ・テレビ放送機構)という組織が結成されて、そこに派遣されたスタッフもいた。
そのORTOのもと、ほとんどの競技会場の国際信号制作をNHKと全民放局が担当した。
スケート会場のMウェーブは日本テレビ、フィギア会場はTBS、ジャンプの白馬はフジテレビ、アルペンはNHKなどと、各局のスタッフが長野に集結した。
ただしアイスホッケー、カーリングはカナダのCBCが、またボブスレー・リュージュはイギリスのBBCが担当するなど、日本国内での制作経験の少ない競技は外国チームに委託された。
とはいえ、現在ではIOCが委託したOBS(オリンピック放送機構)という専門の国際チームが担当する国際信号制作を、ほぼ日本人制作者によって作り上げたのだ。
加えて冬季オリンピックでは初めてNHKのみならず民放連も放送権利を獲得して、夏季と同じようにジャパンコンソーシアム(JC)が結成された。
長野大会をきっかけに、夏と冬両方のJC体制が確立されたのも、エポックメイキングだった。
私はそのJC の制作デスクとして参加し、NHK や民放など垣根のない立場で放送制作にあたった。
1964年東京大会は地方に住んでいた小学1年生は、自国開催のオリンピックを体感していなかった。
縁があってテレビ局に入社し、スポーツ制作畑を歩んだからこそ1998年の自国開催オリンピックに放送人として参加できた。
その時には近い将来に東京2020が開催される日が来ることなど、頭の片隅にもなかった時代に迎えた自国開催のオリンピックであった。
このような経験は一生に一度かもしれないと、覚悟して日々の業務にいそしんだ。
だから、私にとって長野はやはり思い出の地だ。
長野県・塩尻市にある「木曽・くらしの工芸館」では、もちろん長野オリンピックの展示のみならず、多くの楢川村の名産の漆器の展示と販売をしている。
その時に見た麗しい漆器たちの輝きときたら、何と素晴らしかったことか。
漆塗りの大きな魅力の一つとして、その美しい光沢が挙げられる。
しかも漆は時間が経つにつれてだんだん透明感が増していき、使い込む事でどんどん艶が出て深みが出る特徴があると聞いた。
こうした経年による何とも言えない変化も、漆器の楽しみの一つと言えよう。
伝統と継承の大事さと、何よりそれを支える職人の一流の技に心を揺さぶられた、信州の初冬の一日であった。