記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。
2つの文字、3つの宗教、4つの言語、5つの民族、6つの共和国、7つの国境からなる多元国家が、かつてあった。
その名はユーゴスラビア社会主義連邦共和国。しかし、現在はユーゴスラビアという国は存在しない。
純白の雪というお化粧を纏っていたせいもあってか、1984年に初めて訪れたユーゴスラビアの一都市、サラエボは美しく素敵な街だった。
オリンピックの歴史において、戦後日本が参加しなかったのは1980年モスクワ大会だけである。当時ソ連のアフガニスタン侵攻に反対した西側諸国がアメリカなどを中心に一斉に参加をボイコットし、これに日本も追従した。
不参加の賛否は議論を巻き起こし、スポーツに対する政治の介入ということだけは間違いなく、多くのアスリートが涙の抗議をした。
レスリングの高田、柔道の山下らの涙の会見は、まだ大学生だった私の心にも深く刻まれた。
モスクワボイコットの翌年1981年に、日本テレビに入社した私の初めてのオリンピック体験は、1984年当時まだユーゴスラビアという国家に統合されていたサラエボだった。
1990年以降の民族内紛を経て、サラエボは今、ボスニアヘルツェゴビナの首都である。
人生初のオリンピック取材は、初めてのヨーロッパへの旅でもあった。
当時ヨーロッパへ行くには、給油の関係でアラスカのアンカレッジを経由し、飛行時間も今の1.5倍もかかったように思う。
オリンピック番組キャスターをお願いした福留功男アナウンサーと一緒だった。
当時の日本テレビの人気番組“アメリカ横断ウルトラクイズ”の司会でも有名な、私より10年以上先輩との旅も緊張を増幅させた。
しかしそんな緊張もアンカレッジの空港で食べられた日本のうどんと、福留さんの機内でのおしゃべりや、ポーカーゲームがほぐしてくれた。
パリから入国したサラエボは瀟洒なヨーロッパの都市で、それでも当時の社会主義国家ゆえの、表現しにくい独特な雰囲気は感じられた。
勝手に想像していた欧州の華やかさは、冬の季節も相まって感じられず、なんとなく暗いグレー色の都市の様相だった。
そして教科書で習った、第一次世界大戦の引き金になったオーストリア皇太子暗殺の場所、それがサラエボだとの予備知識だけが頭の中で独り歩きした。
ただ社会主義国家として初めて冬季オリンピックを開催するユーゴは、それでも各国からの報道関係者や観客を迎え入れ万全の準備を進めていた。町の中心街に出ると、イスラムの影響を受けた建物もあり、とても美しい都市であった。
宿泊ホテルはアメリカ系のホリデイ・インで、オリンピック関係者用にと、特別に新しく開業されたらしい。
オシャレな部屋の内装、特に室内電話機は、今でいうイケア風のおしゃれな北欧デザインなことに驚いた。カフェで飲むボスニアコーヒーは、どろどろに濃くて飲むのに最初は躊躇したが、とてもおいしかった。
貨幣はアメリカドルからユーゴスラビア・ディナールに両替できたが、再びドルに戻すのに手間がかかると当時は聞かされたし、当然クレジットカードは使えなかったように思う。全てが初めての経験でときめいた。
オリンピックなど国際大会の取材にはアクレディテーションという取材証の獲得が必須である。
当時、冬季オリンピックの中継放送権はNHK独占であり、民放はハイライト番組制作やニュースといった権利が与えられていただけだ。
私は今回、様々な企画を持って事前取材のためにサラエボ入りし、大会開幕直前には帰国し、2本の特番を制作することになっていた。民放には限られた枚数の取材証の権利がNHKから与えられていた。
東京からは、今や死語ともいえるテレックスという通信手段で、ユーゴのオリンピック組織委員会とやり取りをして取材申請していたが、今ほど確認の方法もなく、現地で実際に受け取れるのか、ずっと心配していた。だからサラエボでの初仕事は全員分のアクレディを確実にゲットすることだった。
慣れない初めての街で、アドレスを頼りに組織委員会の入っているビルを訪れた。
薄暗く陰気な印象のビルだったが、意外にも待ち受けていたのは美しい女性スタッフだった。
慣れない英語で、名前を告げて発行作業をお願いした。しかし彼女は私たちの申請ファイルを探しても見つからないという。
内心焦りながら、もう一度確かめてほしいというと、「ああ、あったわ」とにこやかな笑顔で速やかに発行してくれた。
到着の夜は食事の後に、地元の飲食ができるディスコに行ってみたところ、ついさっき我々にアクレディを発行してくれた組織委員会の美女が、一心不乱に踊っているところに遭遇した。
小さな街で出くわした偶然の再会に、日本にいるときに感じていた、社会主義国家に対する偏見も、妙な思い込みも一気に吹き飛んだ。
サラエボ大会に於いて有望な種目と選手といえば何といってもスピードスケート男子500Mの黒岩彰選手だった。そして、当時の日本のマスコミの報道の過熱ぶりは尋常ではなかった。
前年の世界スプリントで優勝し、その後世界新記録も出していた黒岩は大会唯一の金メダル候補アスリートとして、毎日のように取材攻勢を受けていた。
黒岩選手は群馬県嬬恋村出身だったが、その故郷の実家にまでカメラは押し寄せ、本番のレース時には彼の両親の隣にまでカメラが迫っていたのである。
また嬬恋村には黒岩姓が多く、3世帯に1世帯の割合で黒岩家らしく、各局、各種番組では小学校を訪ねると、大勢の子供達を前に、「黒岩君、手を挙げてみて」と問いかけると、ほとんどが「ハーイ!」などと答える様子を、取材報道のキャッチの常套手段に使っていたほどだ。
当時では、群馬県嬬恋村は最も知名度の高い日本の村と言えたが、そんなことまでネタにするほど、オリンピック前の黒岩取材フィーバーは過熱していった。
なぜこのようにマスコミは過熱したか?もちろん黒岩が金メダルの最有力候補であったからだが、日本国民全体でオリンピックというものに飢えていた時期であったことは否めない。
1976年夏季モントリオールオリンピック大会では男子体操、女子バレーボールが金メダルを獲得するなど活躍した。
1980年2月冬季レークプラシッド大会は日本も参加しているが、同じ年の夏季モスクワ大会は、ソ連のアフガニスタン侵攻に反対した西側諸国の大会ボイコットに日本も追従したため、日本人にとってサラエボオリンピックは、待ち焦がれたオリンピックだったのである。
そして黒岩はその期待に応えるように当時の世界新を塗り替えていった。ライバルはセルゲイ・フォキチェフ(当時ソ連)で、彼を意識するあまりか、本番前の最終調整時期にも世界新を狙ったレースをしてしまった欲張りの自分がいたと、黒岩は後に語っている。
黒岩が回想する。
”毎朝起きればカメラがいる。大学の寮の中まで勝手に入ってきて、取材し放題でした。
世界選手権に優勝してから1年間は、常にカメラやマイクの前で「メダルの自信はありますか」っていう話になるわけで、簡単に済ませるために「メダル狙いますよ」って言ってました。
"メダル、メダル"と頻繁に口に出していたんだけど、ある時期から"メダル"と口に出すとストレスになっている時期もあったんですよ。
”確かに前年世界チャンピオンで世界記録保持者でもあった黒岩だったが、まだオリンピックのメダルを獲得したわけではなかった。
ある意味、彼にとってオリンピックへの旅路の全てが、初めての経験だったのだ。
男子500mスピードスケートという競技は、当時一発勝負のワンレースで決着をつけるシステムであった。2人で同時に滑るが、インかアウトかスタートの位置でも有利不利があるといわれるデリケートなレースである。一般にはインが有利と言われており、しかも黒岩はインスタートが得意であった。インかアウトスタートかは抽選だから、神の味方も黒岩はつける必要があったのかもしれない。
特番に備えて帰国した私は、当日のレースを東京で中継映像を見ていた。小雪の舞うゼトラという名のリンクで黒岩の夢は散ることになったのだが、そのシーンを全く想像もしていなかった。
日本国民が注目したレース当日、雪交じりの荒天でレースはなかなか開始されなかった。
国際映像からも、屋外リンクは深い雪の中にあることがよく分かった。黒岩も待たされ、しかもアウトスタートとのアナウンスがあった。
優勝候補の一角であるコズロフ(ソ連)との一騎打ちとなったレースは、思ったようにスピードが伸びず、フィニッシュ近くで身体が少し浮いてしまうなど、集中力をも失い10位に終わる。そんな中でノーマークの法政大学3年生の北沢欣浩がいきなり銀メダルを獲得。これには一般の多くの視聴者たちも驚いたのではないか。
プレッシャーのあまりなかったであろう、無欲の北沢が快挙を成し遂げたのは大いに賞賛すべきことだったが、黒岩の心情を思うと切なかった。ちなみに金メダルを獲得したのは、直前まで世界記録を争っていたライバル、フォキチェフだった。
先に述べた様に日本中の待たされたオリンピックの期待を一身に背負うような黒岩彰の動向は、マスコミの報道からしても尋常ではなかった。
レース当日も黒岩家の実家に多くのカメラが押しかけて、本番レースを見守る家族の様子まで密着した。
この手法は今でこそよくあるが、自宅の中まで入り込み、家族の様子を克明にカメラは追うことなど今でも稀なことだろう。
しかもカメラは全局のそろい踏みだ。日本テレビのカメラも家族にべったりと張り付いていたが、レース中の黒岩さんのお母さんを追った映像は今でも覚えている。
スタート直後、集まった家族や親戚の方々が「がんばれー」と声援をあげる中、黒岩さんのお母さんだけが手をぎゅっと握りしめながら、レース中にたった一言「あきら・・」と呟いた。
ひょっとすると高性能なマイクでしか拾えなかったであろう小さなその声が、テレビ画面を見つめるお母さんの横顔と共にビデオに収録されていた。
編集時にその部分の音を、何回も繰り返し再生して初めてわかるほどの小さなか細い声だった。
それはいわゆる声援ではなく、金メダルを宿命つけられた息子の無事を心から思いやる、母の心のつぶやきのようでもあった。
そしてレース直後、メダルの可能性がなくなった瞬間に、確かお姉さんだったと思うが、いたたまれず涙ぐみながら、カメラから逃れるように隣の部屋に行った時にも、カメラは執拗に追いかけて映像を撮ろうとしていた。
私は撮影現場にはいなかったが、いたらどういう判断をしただろうか。
ただお母さんの「あきら・・」と祈るように呟いたシーンを、私はニュースやオリンピック特番で、特ダネの様に何回も使用したのを覚えている。
さすがにレース当日の、サラエボ現地での本人への直接取材がままならなかったこともあった。
しかしアスリートに一番近い肉親をテレビカメラが執拗に追うことの是非を考える前に、当時26歳の若い制作者の私は、それが黒岩彰の無念の物語を表現できる一番の術だと考えていた。
サラエボから送られてきた生中継の国際映像は最初、黒岩の背中しか見えなかったし、小雪に曇る夜のリンク全体は暗く、黒岩の表情はなかなか読み取れなかった。
しかし日本から派遣した独自の録画用取材カメラは、失意の黒岩の表情のアップだけを執拗に追いかけていたから、後に何回も繰り返し見ることができた。
そしてそのたびに切なかった。
まだ小雪の舞うゼトラのリンクで、クールダウンをしていた時のことだ。
順位と正式記録を確かめるために電光掲示板の方向に振り返って、ふとその顔を上げた黒岩彰の目元に、一粒の雪のかけらがすっと降りかかって頬のあたりを伝って落ちた。
その映像を見ると、まるで黒岩の無念の涙のように私には映った。
以下(後編)へと続く。