Essay

シリーズ・記憶の解凍㉖「2004年アテネオリンピック」 ~名実況”栄光の架橋”に潜む言霊~

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架橋だ!」
2004年アテネ五輪体操男子団体決勝で日本が28年ぶりの金メダルを獲得した瞬間、実況を担当した刈屋富士雄アナウンサーが発したこの言葉は、スポーツ実況の歴史の中でも「名言」として、人々の記憶に深く残っている。

アスリートをリスペクトし、長く深く取材し、その競技の持つ特性や魅力に触れてきた者にしか表現できないものがある。
そして、その刹那に浮かんでくる言霊は、その心情や努力を見てきた者にしか宿らない。
幸運も含めて、名言は生まれるが、偶然ではなく必然の準備をしてきたことを忘れてはならない。

刈谷さん(元NHK)は、1992年から2008年までジャパンコンソーシアム(JC)のアナウンサーとしてオリンピックに参加。
特に体操競技を担当し、その歴史をずっと見てきた生き証人の様な方だった。
刈谷アナウンサー自身の体操競技との関わりについてである。
1996年アトランタ五輪の時に体操女子の実況として現地に行き、その際に団体男子の決勝も現地で取材したそうだ。
日本が惨敗した時に、ある国のコーチが『体操日本の陽は没した』と言い、それを聞いた刈谷アナウンサーは、もし再び日本が金メダルを獲ることがあったら『体操ニッポン、陽はまた昇りました』と言おうと決めていたという。
その想いは8年の歳月を経て、アテネオリンピックの舞台で結実した。しかし実際の刹那の実況は「「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架橋だ!」だった。

この実況が人々の記憶に深く刻まれたのにはいくつかの理由があると思う。
体操男子団体で日本が28年ぶりの金メダルを確定させた際のフレーズであった事は、何より心に残る実況になった要素であるのは間違いない。
オリンピックのたびに1960年代から注目され続ける体操競技において、男子日本は勝てなくなっていたからだ。
そして当時のNHKオリンピックイメージソング「栄光の架橋」(ゆず)が様々な感動的シーンにバックに流れたことも大きい。
令和になっても、この名曲は色褪せない。タイトル名もオリンピックシーンと共に永遠不滅な気がする。
その曲タイトルをもじった実況は計算されたものとみる向きもある。
しかし刈谷アナウンサーは必ずしもそうではないという。

以下は刈谷アナウンサーの回顧からの引用である。

僕は、フレーズとか言葉っていうのは考えないんですよ。
「だからそれを考えていたんじゃないか」って言われますけど、全然違うんですよ。
確かに「栄光の架橋」はNHKのアテネオリンピックの応援ソングだったんですけれども、歌詞は“栄光を称える歌”ではなくて、とんでもない挫折を味わってそこから復活していく歌”なんですよ。
だから、体操の選手たちをずっと取材で追っていても、みんなやっぱりかなり苦しい目に合って、そこから復活してきてるんですよね。
だから、あの歌詞と選手たちはダブるんですよ。そのダブった記憶というのが僕の中にあるんです。
冨田洋之選手が鉄棒から降りるところを、僕は下から、首を右から左に振るような形で何度も見てたんです。それが、これは何か橋みたいだなと。
そして予選が終わった後に、決勝で米田功、鹿島丈博、冨田で最後の演技者になると考えた時に、もし銅メダルを獲った時には「復活」という言葉が使えるのかなっていうのをずっと考えていた。
「体操ニッポン」は、過去20年間ずっと王座だったんですよ。
それを(モスクワオリンピックの)ボイコットによって失って、それが取り返せないでずっと来たという経緯がある。
そういうことが断片的にある中で、奇跡が3つ起きるんですよ。
まず、絶対的に金メダル候補だった中国が脱落する。次に、最後の種目で競っていたルーマニアの鉄棒のエースが落下する。
そしてアメリカの絶対的なエースが大きなミスをする…と。それらが重なって、最後の冨田のところで「8.962」という数字を見たんですよ。
これは、演技の途中で決まると。
当時は、加点していってそこからの減点なので、もし9.8まで加点して降りれば、着地で大失敗しても9.1か9.2なんですよ。
だから8.962は超えるので、これはもう、コールマンをとった時点で金だ!と。
一応、マイクを切って小西(裕之)さんに「これをとったら金ですよね?」って聞いたら、小西さんが「そうそうそう!」って(笑)。
だから栄光への架け橋」にしよう”と思ったのは、「8.962」という数字を見た時です。
そしてコールマンが決まったら絶対に言おうと。
ですから、「日本のみなさん、金メダルを獲りましたよ!」という、そういう想いであのタイミングで言ったんですよ。
「点数が出ていないのに何を言ってるんだ!」って人たちもいっぱいいましたけど、でも計算上ではあそこで金は確実なんですよね。
だからあえてああいう風に言ったので、点数が出ないとわからなかったり、あるいは点差が「9.2」だったら言ってないです。
でもあれは、冨田選手が着地をピタッと止めてくれてくれたから伝わった言葉で。
あそこでもし着地で乱れていたら、多分、僕が言ったコメントは誰も聞いてないと思います。
テレビとかラジオで“伝わる”っていうのは、そういうことだと思うんですよね。タイミングです。

伝説の名実況「栄光の架け橋だ!」はこうして生まれた
https://www.tfm.co.jp/beat/archive/sp/index.php?catid=2263&itemid=174497 からの参考引用

スポーツの感動的なシーンに言葉はいらないという人がいる。
ある意味、その通りと思う時もあるが、逆にそのシーンに添えられた言葉が、より感動を生み出す時も絶対にあると私は思う。

スポーツ番組に長く携わらせてもらったが、実況アナウンサーとの共同作業ともいえる現場の仕事は楽しく、苦労も多いがやりがいのあるものだった。
スポーツ中継ではおそらく延べ100人以上のアナウンサー(JCではNHK、他の民放局)と一緒に仕事をさせていただいた。
関わらせてもらったアナウンサーたちはそれぞれに魅力的だった。
そして映像を生み出す制作側と実況するアナウンス側とで、放送に関してよく議論もしたものだ。
スポーツ現場では、俺の撮った映像について来いとアナウンサーに言ったディレクターもいた。
ある人は私がしゃべった実況に合わせる様な映像を、ディレクターには撮って欲しいといった。
スポーツにおける言葉の持つ意味とは何だろうか。
スポーツにおける忘れがたいシーンは人それぞれにあると思うが、スポーツにおける実況の持つ意味とは何だろうか。

アナウンスという実況の世界には、名調子、名セリフという表現で、賞賛される場合がある。
スポーツパフォーマンスそのものに対する実況でなくとも、スタジアムやアリーナなど、感動を生み出す場所の空気や匂い、ざわめきまで心に響くようなコメントがある。

有名なのは、1964年東京オリンピック開会式における、北出清五郎アナウンサー(NHKテレビ)の開会式での描写表現だろう。
「世界中の秋晴れを、全部東京に持ってきたような素晴らしい秋日和であります」
ブルーインパルスが五輪マークを抜ける様な青空に刻んだ遠い日が、今でも呼び起こされるような気がするではないか。
ちなみにNHKラジオの鈴木文彌アナウンサーの実況はこうだ。
「開会式の最大の演出家、それは人間でもなく、音楽でもなく、それは太陽です」
いずれも、戦後の復興を果たした日本の首都・東京の美しい季節に、無事に開催を迎えた平和の祭典を心から喜ぶ日本人の、快哉の声の代弁の様だ。
すなわち、その言霊に多くの視聴者がシンパシーを感じるシチュエーションは不可欠であろう。
それにしても、2024年のパリのような大雨の中での開会式にならなかったのは幸せだった。

さらに、アスリートたちの苦労の歴史や背景まで透けて見えてくるような名セリフも、後世にまで残ることがある。
そしてそれらは、周到に心の奥底に準備されていた言葉たちだったとしても視聴者の心に響く。

例えば1992年バルセロナオリンピックの工藤三郎アナウンサー(当時NHK)による「高野は世界の8位」。
高野進は、陸上男子400メートル決勝で、米ロサンゼルス大会(1932年)100メートル吉岡隆徳以来60年ぶりとなる短距離種目での日本人ファイナリストとなった。
決勝で高野は8人中8位だった。
工藤アナは3回目のオリンピックで初の決勝に進んだ31歳高野の長年にわたる努力に敬意を払い「世界の8位」と表現した。
メダルという結果だけが評価されるのではなく、陸上のトラック競技における世界的レベルの高さに挑み続けた、高野に対する勲章のような愛情あふれるコメントではないか。

「探していた、見失っていた光は、ロンドンの風の中にありました」
女子バレーボール3位決定戦で日本が韓国に勝利し、1984年のロサンゼルス大会以来28年ぶりのメダル(銅)を獲得した瞬間の実況だ。
広坂安伸アナウンサー(NHK)によるこのフレーズは、ロンドン大会NHK公式イメージソング「風が吹いている」(いきものがかり)を意識したことは間違いないだろう。
それでも日本女子バレーボールの復活までの苦難の歴史を、まるで一編の詩のようなリズムと言葉選びで感動的に伝えたと思う。

「ベンジョンソン、筋肉の塊」
1988年ソウルオリンピック男子100m決勝のスタート直前に発せられた羽佐間アナウンサー(元NHK)の言葉である。
ここに込められたのは、観るものすべての人々が感じた印象の大いなる代弁と言えるのではないか。
この後わずか10秒足らずで世界一速い男が決まる世紀のスタート直前に、全世界に映し出されたベンジョンソンの全身のアップを観て、世界中の人がそう感じる様な実況であった。
当時のライバルで同じく優勝候補のカールルイスのアップがそのタイミングで映されたら、このフレーズは封印されたままだったかもしれない。
まさしく映像とのリンクやタイミングこそが重要なことを再認識させられる。
他にも多くの名実況が生まれてきたが、紹介はここまでにしよう。

名実況と呼ばれるコメントが後世に残されるのは、オリンピックやワールドカップなど多くの人々の関心を集める大会であるのは間違いない。
特にオリンピック放送においては、NHKと全民放局で構成されるジャパンコンソーシアム(JC)で放送権を共同獲得するだけではなく、日本向けの放送は全局から選抜されたスタッフで制作される一大放送プロジェクトだ。
国際映像に実況を付ける大事な役割を負うアナウンサーは、各局から指名されて全ての放送局のために仕事をする。
担当する競技は事前のNHK、民放局での協議によって決定されるが、各人たいてい2から3競技を受け持つ。
普段から自局で実況する機会がある競技もあれば、初めて実況を受け持つ競技もあり、事前の準備に担当アナウンサーは奔走することになる。
それでも4年に一度、いわばオールジャパンのメンバーとして業務にあたる栄誉も感じながら取材をしていくのだ。
ちなみに2024パリでは24 名(NHK12名、民放12名)のアナウンサーが実況を担当した。
この24名で32競技329種目のほとんどを実況するのだから、その負担は想像できるであろう。
東京2020大会では地元でもあり46名に増員されて臨んだが、通常の夏季大会では上記のような体制である。

時にスポーツ中継を観ているときに実況や解説は不要だ、あるいはうるさい、邪魔だという声を聞くことがある。
もちろんあまりに実況者が絶叫したり、どうでもいいことをまくしたてられたら誰しもそう感じることもある。
ただスポーツの実況があることで、よりそのシーンが輝いて見える瞬間もあると信じている。
要するに、個人の心の中に溢れた感情がシンクロしたようなコメントには大いに共感できることがある。
観戦者の心の叫びを代弁しているようなと言ったら言い過ぎだろうか。
ただ一瞬のために、長い年月をかけて周到で緻密な準備をしてこそ初めて、そういった実況の名言が生まれることは共通しているように思う。

私は2005年6月から2007年2月まで日本テレビ・アナウンス部長を拝命した。
約60名の男女アナウンサーの管理職として、短い期間ではあったが、私は宝物を預かった様な気持ちでいたことを思い出す。
言葉を駆使して、表現する人たち、そのことを生業にするアナウンサーの日頃の矜持や努力を目の当たりにしていたからである。
もともとスポーツ制作の仕事に長く関わった。
スポーツ中継ではおそらく延べ100人以上のアナウンサー(JCではNHKや他の民放局も含む)と一緒に仕事をさせていただいた。
その中の一人に河村亮アナウンサーがいた。
本当に生真面目に取材をし、適格で正確な実況力に定評があり、後輩たちの良きお手本になる素晴らしいアナウンサーであった。
私が部長の時にも、2006年トリノ冬季オリンピックのJC アナウンサーの一人に指名させてもらったが、皆が納得の人選だったと思う。
彼は残念ながら2022年5月に54歳の若さで亡くなった。

オリンピックや野球、サッカーなど多くの競技で実力を発揮したが、箱根駅伝も彼のライフワークの一つであったように思う。
そして、河村アナウンサーが2007 年1月2日第83回箱根駅伝5区の山登りのゴールで叫んだ実況が後世にまで語り継がれている。
「ここに山の神降臨。その名は今井正人」。
その大会で順天堂大学の今井正人(4年)は往路5区の4人抜き、3年連続の区間賞を達成した。
この言霊には、箱根の過酷な山登りのコースに挑み驚異的な記録を達成したランナーへの賛辞がたっぷり詰まっているように思う。
何より当時、驚異的な走りで区間新を更新した今井の強さを神と呼ぶことに、多くの人が共感できたと思うのだ。
まして舞台は正月の箱根路であり、何か神々しい空気の中で芦ノ湖のゴールに飛び込んできた瞬間の実況であった。
箱根駅伝で、中継1号車(トップを中心にレースを実況する役目)を11回も務めていた河村アナウンサーは、多くの学生ランナーたちの喜怒哀楽を長いロードの上で見つめてきたと思う。そうした歴史絵巻のようなドラマの数々の一つとして、山の神を表現したのだから素敵だった。

その実況が込めた競技そのものやアスリートへの愛情、リスペクトといったものが名言、名実況として後世にも残るものになると思う。
そしてそのパフォーマンスの舞台が、さらに言霊を響かせる。
さらに、すべては視聴者もそうだよね!と思える感情だ。
だから本来は誰が実況したかは関係ないのかもしれない。

先日、元NHKのアナウンサーでいらした島村俊治さんとお話をさせていただく機会があった。
1988年ソウルオリンピックでの鈴木大地、1992年バルセロナオリンピックでの岩崎恭子の金メダル実況をされた名アナウンサーである。
JCでバルセロナや長野オリンピックで仕事をご一緒させてもらった。
84歳になられた今でも、JスポーツなどでMLB野球実況をされている現役だ。
様々な経験談やアナウンサーの自身の心得など幅広く伺うことが出来たが、印象に残ったのは次のことだ。
自分は決して「がんばれ」というフレーズは使用しないということだ。
そこには、視聴者にとってあまりに当然すぎて、当たり前の感情しか浮かんでこないという意味だととらえた。
表現者としては、その応援の気持ちを何らかの違う言葉に置き換えたいのかもしれない。

最後に古い話で恐縮だが、1936年ベルリンオリンピック女子200m平泳ぎ決勝において、日本の前畑秀子さん(1995年・80歳没)とドイツのマルタ・ゲネンゲルの大接戦が繰り広げられた。私も生まれるずいぶん前の出来事だ。
第2次世界大戦の影が、重く垂れこめ始めた時代であったろう。
前畑さんは前の1932年大会で銀メダルであったため、並々ならぬ覚悟で金メダルに挑んだという。
もし負けたら日本に帰れないと悲壮な気持ちでレースに臨み、直前に日本の方角に祈りを捧げながら、日本の応援者からいただいたお守りの一つを思わず飲み込んでしまったと語っていた。

それはラジオ実況であった。
NHKの河西三省アナウンサーは、最後の50mの折り返しからゴールまで声の限りに連呼した。
「前畑がんばれ、前畑がんばれ」・・・。
20回以上も叫び続けて、このデッドヒートは1秒差で前畑さんの優勝となった。
この実況も、また長く伝説として語り継がれた。
河西アナウンサーも日本国民の期待を一身に背負い、とてつもないプレッシャーの中で戦う前畑さんの心情を深く理解していたに違いない。
その一瞬に、受け取る側の心の中に思いっきり染みこむ言霊であれば、それはそれで素晴らしいのだと思う。
言霊とは、その時代ごと、その背景、その一瞬の空気の中にこそ宿るのだから。
そして大いなる共感(シンパシー)こそが、すべてである。

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