Essay

シリーズ・記憶の解凍㉒「2008年北京オリンピック」~陸上男子4x100mリレー、メダルの色とドーピング~

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

最後はアンカーの浅原宣治がゴールを駆け抜けて、電光掲示板で3位を確認するとバトンをポーンと天高く投げ上げた。
選び抜かれたスプリンターたち4人がバトンを繋いで、わずか36秒の世界を争う4x100mリレーのラストシーンである。
日本の選ばれしものたちは、塚原直貴、末續慎吾、高平慎士、浅原宣治の4名。
オリンピック陸上競技の男子単距離部門で、日本が初めて銅メダルを獲得した、世紀の一瞬であった。

陸上の単距離の世界で、決勝に進む事、すなわちファイナリストになるというのは、日本人にとっては大変難しい挑戦であった。
ましてやオリンピックでファイナリストになるということは、世界の8番以内になるということとほぼ同義である。
1932年男子100mで吉岡直伝がファイナリストになってから60年後に、男子400mで高野進が決勝に進み、8位に入賞した快挙を成し遂げた。
その後、世界選手権では末續が200mで銀メダルを獲得するなど、躍進してきた日本の男子陸上短距離であったが、やはりオリンピックのメダルは悲願のものだった。

それでも男子4x100mに関しては、歴史を積み重ねながら入賞を果たし、メダルも夢ではない場所まで来ていた。
1992年初の6位入賞、2000年も6位入賞、2004年は4位とファイナリストの常連になって、迎えた2008年の北京大会であった。
特に36歳になっていた浅原は、2000年、2004年のメンバーであり、自身最後になるだろうこの大会で、メダルを獲得すべく切磋琢磨してきた。
そして北京のレースに挑むのは、浅原宣治を含み、末續慎吾、高平慎士と3名がアテネで4位入賞経験のある、当時の最強メンバーであった。
積み上げてきた努力の末に、2004年アテネでは4位を獲ったから、後はメダルにステップアップしたいという想いは、当然でもあり必然でもあったはずだ。

それでも世界の強豪揃いの決勝は簡単ではない。
ボルトもいるジャマイカ、トリニダードトバゴ、イギリス・・ファイナリストたちはどのランナーも精鋭だ。
日本は得意のバトンリレーで、どこまで対抗できるか。

まず第一走者、塚原が快調なスタートを切る。そして第2走者末續にスムースなバトンリレーだ。
末續も加速しながら好位置につけたまま、第3走者の高平へ。
第3走者の隣のレーンには100m王者のボルト(ジャマイカ)がいる。
一つランクが違うような高速の走りで、一気に後続を引き離したままアンカーへつなぐ。
そのジャマイカに続くように日本もアンカーの浅原へバトンが渡る。
この時点で2位だった日本のメダル獲得に胸が高鳴る。最後はトリニダードトバゴに抜かれたが、3位でゴールインした。
テレビ解説者と実況アナウンサーは日本の快挙を言葉にしたが、当の浅原はまだ確信が持てない。
じっとバトンを握りしめたまま、電光掲示板の公式発表を待つ。
そしてポーンとバトンを天高く投げ上げて、日本の銅メダルが決まった。

日本の4x100mの躍進には目を見張るものがあった。
その強さの背景には、世界にも肉薄するスプリンターが増えたこと、圧倒的な練習量、その練習をともに乗り越えることで生まれるチームワークの良さもあるだろう。
しかし何より日本の強みは、バトンパス技術のうまさだ。

あのウサイン・ボルト(ジャマイカ)も称賛したバトンパスのスムーズさは、その独特の技術から生まれた。
日本は世界の大半の国が採用している「オーバーハンドパス」、つまり手のひらを上向きにしてバトンを受け取る手法ではなく、「アンダーハンドパス」を採用している。
受け手が手のひらを下向きにし、渡し手は下から上方向にバトンを差し出す。腕をそれほど伸ばさないため、「利得距離」と呼ばれる「走らなくて済む距離」は稼げないが、受け手と渡し手の双方が走る姿勢のままバトンパスを行えることが最大のメリットだ。
パスワークを磨いた日本は、アンダーハンドパスを採用した2001年以降のオリンピックと世界陸上競技選手権大会では、全12大会中10大会で決勝に残るという圧倒的な成果を出している。

北京大会の快挙後、ロンドン大会では4位入賞。リオ大会では、山縣亮太、飯塚翔太、桐生祥秀、ケンブリッジ飛鳥のチームが37秒60という記録をたたき出し、アメリカに0.04秒差で競り勝ち、見事に銀メダルを獲得した。
その飛躍を背景に地元開催の東京大会では金メダルまで期待されたが、紙一重で勝負をかけたバトンリレーが第一走者から第二走者で失敗に終わり、失格に終わったのは残念だったが、今年のパリ大会に期待する。

そのような男子4x100mリレーで、ある出来事が起きた。
2008年から9年もが経過した2017年1月25日、金メダルを獲得したジャマイカの第一走者ネスター・カーターが禁止薬物メチルヘキサンアミンの陽性反応を示したため、ジャマイカチームは金メダルを剥奪された。
IOCは世界陸上連盟(WA )に結果の修正を要求し、CAS(スポーツ仲裁裁判所)がジャマイカチームの訴えを却下した。
これに応じて、当時2位のトリニダード・トバゴが金メダル、3位の日本が銀メダル、4位のブラジルが銅メダルとなった。
2018年12月には銀メダルが、改めて横浜の世界リレー選手権という公の前で当時のリレーチーム4名に授与された。
およそ10年も経過して、メダルの色が銅から銀に変わったのだ。

銀メダルの授与式では、朝原宣治、高平慎士、末続慎吾、塚原直貴の4選手は素直に喜びの表情を見せたが、浅原は、「私たちの記憶の中では当時の感動や評価、順位が事実。一つ上がっていいじゃないかというものでもない」と複雑な心境を口にしたこともあった。
公式の発言では、何を語っていいのか困惑するのは容易に想像がつく。
末續は、「単純な感情じゃないが、複雑な感情も含めて銀メダリストとして生きていく。11年も銅メダリストとして生きてきたので、これからも変わらず、1年1年、銀メダリストになって、銀メダリストにふさわしい人生を歩みます」と語った。
そして何よりよかったのは、こうしたドーピングに競技結果まで翻弄された当時者たちが、口をそろえて、アンチドーピングを唱えて、クリーンな競技を望むことを改めて世間に広く語る場があったことだ。

どうしてこういうことが起こるのか。
オリンピックにおいて、ドーピングでの金メダルはく奪は1988年ソウル大会男子100mのベン・ジョンソンがあまりにも有名だ。
あの時代は、大会中、しかもレースからほんの数日で発覚したから、それがドーピング検査の実態だと私は思っていた。
しかし当時から、禁止薬物を検出されないような狡猾な方法で、検査を潜り抜けてきた歴史もあった。
そこで、分析方法の格段の進歩を頼りに、再度追跡するという手法が近年求められるようになっていった。

オリンピックにおけるIOCはじめ大会主催者は、10年間、検体の保管をしているという。
例えばオリンピック、パラリンピックにおいて出場した選手がドーピング違反をしていた場合、次の大会に出場しないように過去大会の検体を再分析することがあり、そのための保管期間だ。その間にドーピング禁止薬物の分析技術が進歩すれば、検体の採取当時は検出できなかった違反物質が検出できるようになる。だから、10年も経ってからメダルを剥奪されるという事態が生じるのだ。 もちろんドーピングをしていたアスリートが悪い。

こうした”さかのぼり”と称する検体の再分析について、関係者からこう聞いたことがある。
「来たるべき大会におけるクリーンな真剣勝負を阻害しないために、疑わしいアスリートを排除するためのものだ」と。
多くの競技はオリンピックを中心に、約10年間の選手活動が主流と言える。
競技によって違いはあるものの、確かに2回から3回のオリンピック開催時期が個々のピークの中にあると言える。
だからこそ、この10年という、多くのアスリートがそうした舞台で活躍できるであろうスパンで、ドーピング検査の検体は保存されて、分析もできるようにしているというわけだ。

分析技術の進歩によって、その時は疑いがあっても発見されなかった薬物が分析出来るようになった意義は大きい。
検体は10年保存されたのちに、全て廃棄されるとも聞いた。
逆に言えば、10年間は再分析によるさかのぼりはありうるということだ。
そうしたルールがドーピングへの抑止力にもなっているのは間違いないが、およそ10年も経ってメダルの色が変わったり、入賞が認められたりと、アスリートの心情から見れば、複雑な思いはぬぐえない。

こうしたドーピングによる失格を受けての成績結果の繰り上げは、本当に多くの事例がある。
中でも日本人にとって記憶に残っているのが、2004年アテネ五輪・男子ハンマー投げの室伏広治の例であろう。
決勝の6投目に82メートル91まで伸ばした室伏は、それでも28センチ及ばずアドリアン・アヌシュ(ハンガリー)に敗れて2位に終わる。
競技終了後の表彰式で一度は銀メダルを首にかけたが、アヌシュにドーピング疑惑が浮上する。
競技前と後の尿検体が別人のものだったことが明らかになり、大会最終日に失格処分がなされた。
このことで、日本の陸上男子では68年ぶりの金メダルへと繰り上がる快挙となった。
そして日本の金メダルは1964年東京五輪と並ぶ過去最多の16個にもなったから喜ばしいことであったのは間違いない。
しかしその悲願の金メダルは帰国後に日本で受け取るしかなかった。
アスリート室伏にとって、アテネの現場では銀だったこと、2位の表彰台に立ったこと、さぞかし悔しかったであろう。
本来なら、一番高い位置に立ち、スタジアムで国歌を聞き、優勝のウイニングランもできたかも知れなかった。
しかしそれでも男子400mリレーのように、数年たってからメダルの色が変わったわけではないことは救いであったのではないか。

ちなみに2008年北京大会での室伏は、ピークを過ぎていたこともあり5位に終わった。
ところが、いづれもベラルーシ代表で銀メダルのワジム・デビャトフスキーと、銅メダルのイワン・チホンから、筋肉の増強効果があるとされるテストステロンという薬物が検出された。IOCは大会後の規律委員会で2人の選手に事情聴取を行うなどした結果、無実を証明できる証拠がないとして2選手の失格、メダルはく奪とした。
大会が行われた2008年12月IOC理事会での決定で、これによる順位繰上げで5位入賞の室伏が銅メダルを獲得することになった。
アテネで金、北京では銅と、輝かしい連続メダル獲得の快挙達成であった。

となるはずだったが、歴史の事実はこうなった。
スポーツ仲裁裁判所(CAS)は、2010年になって、IOCがドーピング違反で失格としたベラルーシ2選手の提訴を認めたのだ。
その結果、両選手の資格は回復し、5位の室伏の繰り上がりメダルはなくなった。CASによれば、北京大会での分析手続きには不備があり、違反と断定するには根拠が不十分とのことだった。
ドーピング違反の処分が提訴で覆ることは珍しいと思う。
CASは今回の裁定が極めて複雑なケースだったと強調し「選手たちが無実と解釈されるべきではなく、テストステロンを摂取したことを否定するものでもない」と指摘している。

そしてドーピング失格に伴う順位の繰り上げは、メダルだけにとどまらない。
本来なら予選通過だったはずなのに、あるいは入賞していたはずなのに・・。
その時々に、得られるはずだ名誉や賞賛、祝福の言葉、ひいては自分自身へのご褒美すら失われて、過去にはもう戻れない。

2012年ロンドン五輪女子20キロ競歩で、当時日本女子歴代最高の11位となった瀬真寿美は、2023年に8位入賞の表彰を受けた。
上位選手にドーピングが発覚し、大会から11年経っての出来事だった。本人は「ベストを出し切っても入賞に届かなかった。あの場で8位でゴールしていたら凄くやり切ったと喜べたと思います。なかなか今、8位なのは……う~ん」と苦笑いし、複雑な胸中を垣間見せた。

ドーピングに関する件で、さらにより一般に知ってもらいたいと思うのは、オリンピックに出られるような一流アスリートたちの日常である。
アスリートたちは、たんに競技後にスタジアムやアリーナなどの中だけで検査を受けているわけではない。
競技会外検査と言って、大会前後の一般的な行動の中で、各国の選りすぐりのアスリートに対して実施されるドーピング検査である。
競技の特性によって、ドーピングリスクは異なり、そのクラス分けをしたうえで、オリンピックに出場する様な一流アスリートをRTPA(Registered Testing Pool Athlete)の対象にする。これは各国、各競技ごとに対象を決めているとのことだ。
このRTPAに指定されたアスリートは、3か月ごとの自身のスケジュールを詳細に提出する義務が生じる。
トレーニングや合宿の場所、競技会参加の場合のスケジュールはもちろんのこと、そのトラベル情報、宿泊などの居場所などをまとめて提出するそうだ。
しかもその期間は、朝5時から夜11時までの間、1日1時間ドーピング検査に対応できると考える時間と場所を指定しなくてはならないのだ。加えて、競技会外検査はこの提出されている1時間以外の時間帯にも行われるとのこと。
すなわちアスリート側は、居場所はいつも明確にし、検査する側は抜き打ち検査が可能になるという仕組みだ。
その頻度ややり方は、もちろん非公開だが、ドーピング検査は尿だけではなく採血もある。
指定時間以外にも突然現れる検査員に対応しなければならないアスリートにとって、トレーニングや競技会の合間も心が休まらないのではと案じてしまうほどだ。
ただ、アスリートの中には、このRTPAに登録されたことが一流選手になった証として、光栄に思うことが多いとも聞いた。
そして、こうしたシステムによって、禁止薬物使用へのアスリートの倫理観の育成、関係者含めた競技者たちへの違反抑制につながるとも感じた。

このようにアスリートたちはドーピングに手を染めていない潔白を証明しながら、日々オリンピックなどの大きな舞台を目指し、苦しいトレーニングに励んでいるのだ。
花粉症だから、少し頭痛がするからと言っても慎重に投薬も選ばなければならない節制も強いられるのだろう。
その一方で、禁止薬物の種類が10倍になれば、ドーピング分析技術は10倍にも100倍にも進歩しなければならないとも聞いた。
ドーピング違反と、その取り締まりの歴史はいたちごっこの連続だ。

最近一番の話題となったドーピング問題は、2022年北京冬季五輪における女子フィギアスケートのワリエワ(ロシア)の件であろう。CASはワリエワに対し、4年間の資格停止処分と、その間のすべての成績を失格とする裁定を下したが、北京大会のフィギュアスケート団体の順位の繰り上げについては、関係するスポーツ団体に判断を委ねるとし、まだメダル確定や授与には時間がかかりそうだ。
国際スケート連盟は、団体で3位だった日本が、ワリエワのドーピング違反による失格を受けて銀メダルに繰り上がると発表した。
ワリエワがメンバーだった1位のロシア・オリンピック委員会は失格とならず、ワリエワの記録だけが失効しただけなので金ではなく、銅メダルを獲得する。これには4位のカナダは不服を申し立てていると聞いた。
いずれにしても日本を含めて、大会から2年経っても、まだ誰もメダルをもらっていないことは、本来考えられない。

こんなことをいつまで繰り返さなくてはならないのだろうか。
すべてはドーピングに手を染めるアスリートやその関係者が問題である。
現状は、ドーピング取り締まりや検査のやり方に限界があるなど、他に手立てがないにしても、何か方法はないものかと思う。
検出されない方法で巧妙にドーピングを繰り返すことを許してはならない。
ましてや10年という時効を逃げ切ろうなどと姑息な考えを持つアスリートは排除されなければならない。
そのための厳しいアンチドーピングの思想は重要で、しばらくは競技会外検査など、ポリスのように目を光らせていなくてはならない現実がある。
禁止薬物など使用しないで、自身を鍛え、技を磨き、正々堂々と戦うことが当たり前のスポーツ界になることを祈ってやまない。

個人的に強く感じることがある。
あの2008年のレース直後の、浅原のバトンを投げ上げて喜びを爆発させたシーン、4人が集まって世紀のメダル獲得を共に祝った笑顔の映像が残ってよかったと。
あれがアテネ大会同様にメダルに届かなかったら、あそこまで美しいシーンはアーカイブには残らなかったに違いない。
メダルの色など、あの時点では問題ではなかったことに対し感謝しつつ、彼らの偉業を改めて祝福したいと思う。

2024年パリ大会で、ようやく2022北京冬季大会のフィギアスケート団体の成績が最終確定し、メダル授与が行われた。
繰り上げで金メダルがアメリカ、銀メダルは日本、銅メダルがロシア・オリンピック委員会と決まった。
パリのエッフェル塔をバックに、アメリカと日本に対しての授賞式が行われた写真を見た。
特に日本の選手たちが満面の笑顔で、エッフェル塔を背にジャンプしている素敵な姿が印象的だった。
それでも栄誉あるメダルを彼らが受け取ることが出来たのは、大会終了から2年半も経ってのことだったことを忘れてはいけない。

(関連エッセイ)
ドーピングではあまりに有名になった、ソウルオリンピックにおける陸上男子100mベン・ジョンソンのエピソードを
参照していただけたらと思う。
https://yasuhisafukuda.com/essay-001/ 記憶の解凍①「ベン・ジョンソン・神が与え給うた肉体」

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