Essay

シリーズ・記憶の解凍⑳「2012年ロンドンオリンピック」~女王が空から降りてきた~(3)

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

そしてロンドン大会は、パラリンピックにも触れないわけにはいかないだろう。
用意された280万枚のチケットが完売し、人々を熱狂の渦に巻き込んだのだから。

そもそもパラリンピックは、イギリスのストークマンデビル病院の物語から始まる。
とある医師が、戦争で傷害を負った兵士たちのリハビリを指導し、かつその患者たちによるスポーツ大会を開催したことがパラリンピックの起源となった。

イギリスでは、第二次世界大戦中に多くの負傷者が出ることを予測して、専門別に病院が設置された。
ストーク・マンデビル病院は、脊髄損傷者を受け入れる専門病院で、しかも公共病院だった。
そこにもイギリスでは、先進的な福祉医療体制があったと思うから、感心する。
この病院では、脊髄損傷のリハビリとしてスポーツを早くから取り入れた。
その治療法を推し進めた人物がストーク・マンデビル病院の院長であった、ルードビィヒ・グットマン博士だ。。
グットマン博士は脊髄を損傷した患者に、「残された体を最大限に使う」ためにスポーツを勧めたという。

1948年7月28日、ロンドンオリンピック開会式と同日に、ストーク・マンデビル病院で入院患者によるスポーツ競技会が開催された。
4年後には国際的な両下肢麻痺者によるスポーツ競技大会へとなり、1960年ローマ大会では、オリンピックに続き、同じ会場で開催される大会にまで発展した。
その大会は、国際ストーク・マンデビル競技会「STOKE MANDEVILLE INTERNATIONAL GAMES」と呼ばれていたが、後に第1回パラリンピック大会として位置付けられた。

ちなみにParalympic(パラリンピック)という名称は、両下肢麻痺者「Paraplegia(対麻痺者)」によるオリンピック「Olympic(オリンピック)」という2つの言葉をつなげて、1964年東京大会の際につけられたとされている。

そのパラリンピック発祥の地ともいえるロンドンに、あるテレビ局が存在する。
それは「チャンネル4」という公共放送局の一つで、パラリンピックのプロモーションから放送編成まで、特に力を入れて大会に臨んだ。
その一連の中で、シンボリックだったのが、わずか90秒程度だが、きわめて印象的で鮮烈な大会プロモーションビデオであった。

チャンネル4が作ったCM動画のタイトルは、「Meet the Superhumans」。
「超人たちに出逢おう」と訳したらいいだろうか。
ロンドン市民だけでなく、世界中の人々の固定観念を覆した革新的なCMとはどんなものだったのか。

90秒のCM動画では、各競技の選手たちがパラリンピックを目指し練習に汗を流す姿を捉えたスタイリッシュな映像が次々と映し出される。
まるでトップアーチストのミュージックビデオのような趣がある動画は、一瞬にして人の目を引くイントロだ。
しかし次の瞬間、突如として差し挟まれた映像に目を見張る。
戦地で爆風に飛ばされる人、母親のお腹の中にいる胎児、交通事故で大破する車などの映像が、続々にカットバックされる。
これらは、パラアスリートたちのが被った障害の経緯をシンボリックに描いていた。
各シーンの中にインサートと言ってフラッシュのように輝きを持った短い映像が挿入される手法は、それぞれの映像カットの印象が強まる効果がある。
加えて驚いたのは、事故などで手足が失われた身体などが、ありのままに映し出されたことだ。
それまで暗黙のうちにタブーとされてきた「障がい」を隠すことなく映し出したCMは、ネット上などでポジティブな反響を呼び世界中にあっという間に拡散された。

パラアスリートが登場する各シーンの間に、交通事故や戦争のイメージ映像が挟み込まれているCMなど見たことがなかった、
見ている人は、おそらくパラアスリートたちが損傷を負ったであろう、車のクラッシュや戦争の爆弾により燃え盛る炎を目にして、それらを乗り越えてきた精神力の強さを感じ取ったであろう。タイトル通り、彼らこそスーパーなアスリートたちなのだと。
決してショッキングなことを狙ってのことでない、ありのまま、リアルな世界を再現した、このプロモーションは喝采を浴びた。
ちなみに、「Meet the Superhumans」は、世界最高峰の広告の祭典「カンヌライオンズ2013」でグランプリを受賞した。

さらにオリンピックが終わりパラリンピックが始まるまでの2週間の間に、チャンネル4は「THANKS FOR THE WARM-UP(ウォームアップしてくれてありがとう)」をキャッチコピーとして、ポスターや広告看板をイギリス全土に展開した。
「warm-up」とは、本番前の準備運動だから、ここには、オリンピックさえも、パラリンピックのための準備運動だったというユーモアさえ感じられた。
いずれにせよ、今までの固定概念を打ち破り、まず形にして見せたことで、観念的だったダイバーシティー(多様性)&インクルージョン(包摂・共生)社会という言葉の意味が、多くのイギリス国民に支持されたのだと思う。
280万枚ものチケットが完売し、テレビで多くの人がパラリンピックを観戦し、連日話題にして楽しんだ。

英国はパラリンピック発祥の地であり、その素地はあった。
それでも、トップクラスのアスリートたちの競技大会という視点は、今まであまり一般には浸透していなかったように思う。
それはテレビ放送や露出の少なさも、少なからず影響していたのではないか。
チャンネル4が初めて取り組んだ1996年のアトランタ大会では、パラリンピックの放送はわずか1時間だったそうだが、ロンドン大会では毎日16時間の生中継を含めて、総放送時間500時間にも及び、約4千万人が視聴したと聞く。チャンネル4としても創業35年以来、最高の視聴率を記録した。

2021年開催の東京パラリンピックで、国際放送センターに拠点を構えたチャンネル4のスタジオやオフィスを視察する機会を得た。
リオ大会でも放送の成功を収めていたチャンネル4のスタッフの表情は、一様に誇りに溢れていた印象だった。
コロナ禍の中、1年延期されたが、それでも彼らの東京大会への取り組みも熱心であった。
システムや取り組みを説明してくれたスタッフの何名かは、車いすを利用する障がい者でもある。
聞けば、チャンネル4では番組のプレゼンターや制作プロデューサー、インターンなど広く障がい者を雇用しているとのことだった。

パラリンピックについて語る中で、もう一つのエピソードにも触れておきたい。
今から60年以上も前に、ストークマンデビル病院を視察し、グッドマン博士から学んだ先人が日本にもいたのである。
学びから、自分たち独自のものを創り上げていく。
その大切さを、これまた東京2020組織委員会時代に、学ばされた例である。

その人の名前は、中村裕さん、いや中村博士と呼ぶべきだろう。
中村博士は国立別府病院整形外科医長だった当時の1960年に、ストークマンデビル病院を視察する機会を得た。
「パラリンピックの父」ルートヴィヒ・グットマン博士のもとで、身体障害者のリハビリにスポーツが効果的なことを学んだ。
日本ではまだ、障害者は病院や家の中で人知れず暮らしていた時代であり、ましてやスポーツするなど想像もできなかった。

1981年、国際障害者年に合わせてこの世界初の車いす単独大会が始まった。
呼びかけたのは「日本パラリンピックの父」と呼ばれた医師、中村裕である。
1961年には大分県身体障害者スポーツ大会を創設、64年の東京パラリンピック開催に道を開いた。
75年にはアジア、太平洋地域の障害者によるスポーツ大会「極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会」通称フェスピックを創設し、別府で第1回大会を開催した。現アジア・パラリンピック競技大会の前身である。
同時に社会福祉法人『太陽の家』と企業のコラボで、障害者の雇用を進めた。

大分には障害者スポーツの先進県として、自負があると聞いた。
『大分国際車いすマラソン』は40回以上の歴史を積みかさねてきた。
この件については正直に言うと、オリパラ組織委員会で業務するようになって初めて詳しく知った。
パラリンピック準備の専門部門があり、大分の車いすマラソンはパラスポーツ競技の聖地だと聞かされた。
大分の街は段差が少なく、車いすも走りやすいということも知らなかった。
中村医師は、グッドマン博士から学び、自分たちの進む道を探し、地域にも根付かせながら、パラスポーツの発展に尽くした。

ロンドン大会に話を戻そう。
開会式の演出から、スポーツ愛に溢れた観客たち、パラリンピック発祥の地である伝統など・・お手本にすべきものがいっぱい詰まった大会だった。
実際に、東京大会の招致委員会のメンバーの多くが、翌年のIOC総会での開催地決定に向けて、最後のロビー活動と共に、視察もおこなっていた。
多くの人々が、オリンピックもパラリンピックも大成功だったと感じた。
ただし、このオリンピック、パラリンピックの私の記憶は、極めて特別なものだったことは間違いない。
私自身も、55歳を過ぎてもなお、学びが必要なことを学んだ。
そして学んだ人から、真摯に学ぶ。
さらに学んだ人たちは、学びを求める人たちに、それを伝える義務があるとさえ感じた。

2013年に2020年東京オリンピック・パラリンピック開催が決定し、2014年から大会組織委員会が発足した。
放送のエキスパート数名が、NHK、民放から招集され準備に当たった。
私もこのロンドン、2年後の冬季のソチと連続してJBAルームの統括を拝命した縁もあり、民放代表として組織委員会に兼務出向した。
2012年の現場では放送する側にいたのが、2014年からは国際的な放送ができる体制を整える立場に代わったのだから、一つ一つの運営の必要要件や課題にも目を配るようになった。
2016年のリオ大会も視察に訪れ、大変参考になったが、とにもかくにも最初に準備の勉強の参考書にした大会がロンドンだった。
スケールの大きさを求められる開会式のヒントも、パラリンピックの果たす役割も、大分の車いすマラソンのことも、会場整備のことも、輸送の大切さも、全てが、東京大会組織委員会で日々学び、議論をしたものばかりだ。

放送関連における最初の課題は、IBC国際放送センターの敷地面積や技術要件を確保することだった。
招致プランではIOC、OBSの要求にマッチしていなかった。電源の二重化も迫られた。
続いて、羽田沖では国際放送用のOBSヘリコプターが高度の関係から飛べないからと、セーリング会場は当初予定の東京湾・若洲から江ノ島に変更された。
改修して新しくなる国立競技場(オリンピックスタジアム)のカメラ席は大規模になることから当初設計に組み込む事、放送や運営用にモート(ピッチレベルのお濠)が必要不可欠なことも、組織委内で懇切丁寧に説明、理解を得たうえで共有しなければならなかった。
そのためには様々な要件に精通しておく必要もあった。

当時では最新情報とも言えた、ロンドン大会を学んでおいてよかったと心から思った。
そして、やはり開会式では、世界をあっと言わせるような演出を期待した。
自身としては、直接の担当ではなく式典演出の関与はできなかったのだが。

ロンドンでは、女王が空から降りてきた。
では、東京は何ができるのか、世界に何を発信できるのか・・。
思い返すと、期待と不安に満ちた東京への準備の日々は、あの瞬間からもうすでに始まっていたのかもしれない。

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