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シリーズ・記憶の解凍⑳「2012年ロンドンオリンピック」~女王が空から降りてきた~(2)

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

ロンドンオリンピックでは放送においても、いくつかの新しい風が吹き込まれた。
民間放送の中で、新しい取り組みにトライしたのである。
詳細に触れる前に、日本におけるオリンピック放送について概略説明をしておこう。

日本におけるオリンピック放送は、NHK、全民放局によって地上波無料放送(BS無料放送も含む)が大原則である。
1976年モントリオール大会からジャパンプール(JP)なるものを組織して、NHKと共同して現地制作を開始し、この放送プロジェクトを推進してきた。
JPのようなプール体制とは、放送局同士で取材や素材を共有するもので、一般の報道や単発のスポーツ大会などにおいてもプール取材をするなどと呼ぶ。
オリンピック放送体制は、現場にスタッフを供出し一緒に制作をする一大プロジェクトである。
そして何より、昔なら大会組織委員会に、最近ではIOCに支払う高額な放送権利金をNHK、民放全局で負担する共同体でもある。
そこで、1996年アトランタ大会において、単なるジャパンプール(JP)から、ジャパンコンソーシアム(JC=Japan Consotium)に改名されて、現在に至る。

プールという概念を超越して、放送権や放送条件に対してまで広く手を組むことで、交渉を有利に運ぶことまでも目的にしたコンソーシアム「Consotium」とは、ラテン語から由来した英語である。
共通の目標に向かって資源を蓄える目的で結成され「提携、共同、団体」を意味するから、オリンピック放送に取り組むNHKと全民放の一致団結の様をうまく表現していると、私は感じている。

オリンピックの放送権料は、全て公表されているからご存じの方も多いであろう。
1984年ロス大会では、約38億だったものが、大会を追うごとに高騰していき、2012年ロンドンでは約266憶5000万円となっていた。
しかも最近では、契約は一つの大会ではなく、4大会セットなどの複数大会の長期契約となり、IOCはその運営基盤の収入確保にやっきになっている。
IOCの放送権収入への依存度は高く、IOC全体収入の約47%であり、テレビオリンピックと呼ばれるゆえんである。
テレビのための施設や準備が最優先されているのは間違いないが、そのためのIOC、並びに開催国組織委の支出もまた大きくなっている。
高品質、つまり至れり尽くせりの国際映像(カメラ台数やスローの豊富さなど)を、放送権者、すなわち日本ならJCに提供する義務もあるからだ。

ちなみに、日本のJCはIOCにとって上客ともいうべき存在で、おそらく単一の国としてはアメリカのNBCに次いで、世界で2番目に高い放送権料を支払っている。
NHKはその公共性からオリンピック放送は不可欠ではあるが、高騰する放送権料に対応していくには、スポンサーセールスで成り立つ代理店・電通と民間放送の力も必要であり続けた。

また詳細は公開されていないが、NHKと民放の支払い比率は、従来からNHKの負担の方が大きいのは事実だ。
そうした背景から、NHKと民放の放送枠の調整がいつも必要であり、お互いの放送したい人気種目の選択については協議が難航することもあったように思う。
そして民放に割り振られた競技枠も、今度は在京キーの5局で選択しあうが、希望が重複することも多く、調整には民放内抽選なども必要になってくる。やはりメダルが有望な種目を優先的に自社で放送したいのは間違いない。
いずれにしてもJCは放送権料について、IOCとのタフな交渉を繰り返し、一蓮托生の共同体なのだ。

こうやって中継の放送枠が決定しても、今度は各社が独自のカラーを打ち出すために、ニュース用録画カメラ(ENG=Erectric News Gathering)を用意して様々な取材活動を行う。つまり中継ベースはJCの各社派遣チームの予算をとって共同制作するが、各社はユニ(単体の意味)活動を展開するのだ。
当日用ニュース速報のみならず、ハイライト番組や特番制作のための企画性を持った取材などである。
むろん番組の顔になるキャスターやアナウンサーも各局で仕立てる。
何より自分の局らしさも発揮したいのだ。

そのためには、当然多くのスタッフやカメラの用意が必要だが、取材証(アクレディ)の枚数にも制限があるし、カメラを含む技術費も各社ユニ予算に影響を及ぼす。
民放放送局の現地制作費は、大会ごとに膨らんでいった中で、費用対効果を考えた対策が協議されていた。
そもそも各社が負担する放送権利金が高騰していく中で、番組を制作する費用も安くないのが実情だからだ。

一時期は各社が設置するスタジオを一元化して、共同運用する案まで出されたが、放送時間が一斉に重なるなど、自由度の面から、見送られて現在まで至る。
しかし、共同記者会見など、個性を出すものではない取材については、代表のカメラ1台で取材し、それを分け合えば十分という意見が採用されて、以下のような新しい体制にトライしたのが、ロンドン大会だった。
民放局によるプール取材や、共同作業できる拠点(打ち合わせ会議や、臨時インタビューをできる場所の提供)を設けて運営する、民放ルーム(JBAルーム=Japan Broadcast Association)を、初めて設置したのである。
空港での取材、ジャパンハウスと呼ばれるJOC管轄の記者会見は、民放プールカメラで実施した。
独自性があまりない取材だから費用対効果を考えてのことだ。
さらに開会式、人気種目などは、カメラのアクセスには台数制限があったため、代表カメラをどの社にするかを決定し、取材後のVTRを全社で使えるよう分岐作業もリードした。

JCは1992年大会から、日本人選手など自身が注目するところに焦点を当てるために独自のカメラを中継で置くようになったが、各社のユニとしても、中継以外での情報番組の企画用に、狙いの独自テーマを追うようになったから、取材は本当に複雑になった。
例えばJC中継カメラが開会式の入場行進を撮影する場合、国際映像に写らない日本人選手団を長めに多く映すのが通例だ。
そして、各社のユニでスタジアムに入ったカメラは、さらに同じ日本人選手でも、誰か特定選手にさらに焦点を当てて撮影するなどが可能になる。
時には注目選手の両親や伴侶までを追い続けることさえある。

ちなみに女王陛下が空からパラシュートで舞い降りるという演出において、ネタ晴らしをするなら、実際にヘリコプターから飛び降りたスタントマン(女王とボンドに成りすました)は、もちろんスタジアムには着地せずに、テムズ川岸に降りて行った。
その様子を独自に撮影しようと思えば可能だが、そんな無粋なことは意味がないからしないだけだ。

私は、民放連(JBA)ルームの制作統括を任されて、現地に参加した。
民放各局でプール取材(プールとは代表取材を中心に全局が使用できる放送素材)分の取材対象について、各社の代表と毎日会議をして、取りまとめる役割だった。
取材素材の分岐などを行うリード役と、さらにはメダリストのIBCにおけるインタビュー順を協議し、タイムスロットを決める作業を、テレビ朝日のユニ代表幹事と一緒に作業に当たった。
民放ルームという、共同制作の拠点はわずか40平方mだったが、各社への取材VTRの分岐作業、会議やインタビューをするには十分なスペースがあった。
そしてこの民放ルームは、さらに作業内容を増やしながら、東京大会まで発展していき、来るパリ大会でも同じ体制を予定している。

オフィスはオリンピックパークにある国際放送センター(IBC =International Broadcast Center)の中にあった。

宿泊ホテルで、イングリッシュマフィンやトーストにミルクティ―の定番朝食をそそくさと食べて、IBCを目指す毎日だった。
移動手段は、キングスクロス駅に隣接するセントパンクラス駅からオリンピックパークのあるスタートフォード駅まで、ノンストップのわずか約7分で到着する特別列車、通称「ジャベリン」だった。
しかも24時間運行で、早朝、深夜以外は5~8分おきに発着するから、寝坊や遅刻しそうになっても助かった。
英語の「ジャベリン」とは、”槍”の意味で、まさしくビューンと飛んでいくやり投げの槍のごとく、我々を超スピードで運んでくれた。
余談だが、放送などメディア関係者には「オイスターカード」(ロンドン市内の交通利用パスで市販されている)が配布されて、無料でこれら公共交通機関が利用できるのはありがたい話でも合った。
メディアはじめ関係者への優遇措置は、当たり前のように享受していたが、開催国の組織委員会にとっては予算を計上するうえで、負担になることは後で思い知ることになる。
東京大会の組織委でも勤務した私の経験は、また別のところで披露したいと思う。

ちなみにキングスクロス駅には、ハリーポッターに登場する9と4分の3というプラットホームがある。
実際には存在しないこのホームから、魔法学校に旅立つというシーンは世界中であまりにも有名で、今でも絶好の写真スポットになっている。
私も毎日ウキウキしながら、キングスクロス駅の雑踏の中での乗り換えを、魔法の世界に向かうような非日常の気分で楽しんだ。

セントパンクラス駅からオリンピックパークへと結ぶ、ジャベリン特急はわずか7分の旅であったが、たいへん快適だった。

オリンピックパークの中には、大会中に競技場のいくつかと共に、プレスセンターやIBC国際放送センターが林立し、多くの関係者が集まるエリアだ。
そして何より、多くの一般観客が、もし競技チケットはなくとも、アトラクションに参加したり、大会記念品を購入したりできる、楽しい場所になる。
ロンドン大会でも、オリンピックパークはいろいろな施設を複合して、円滑でみんなが楽しめる大会運営のベースになっていた。

このエリアは、ロンドンでもオリンピックを契機に再開発されたもので、大会後も有効的に使用できるようにプランされた。
イーストパークと呼ばれるこの地区は、産業革命後はしばらく繫栄したが、その後は開発が遅れていた。
このオリンピックを機会に、ロンドン東の地区一帯を再開発する目的も兼ねて、鉄道駅の整備も行われたし、大会後の再利用のプランも綿密に盛り込まれた。

オリンピックパークの一角に、メインスタジアムがあり、そこで開閉会式も行われた。
さらに陸上競技はすべてこのスタジアムで開催された。
その陸上競技の予選は、主に午前中に行われ、決勝は夜に実施される。
その午前中の予選に多くの観客が訪れて、8万人収容のスタジアムにおいて、空席がほとんど見当たらなかったことには驚いた。

通常、平日の午前中はスケジュールも取りずらいだろうし、何より予選を楽しむのは本当に陸上が大好きな人が多いことの証だ。
イギリスでは陸上だけが盛んなわけではなく、もちろんどの会場も競技を楽しむ多くの人々の笑顔がみられた。
ロンドン大会組織委員会の会長が、セバスチャン・コー氏であったことも要因の一つだったかもしれない。
モスクワ、ロスのオリンピックにおいて男子1500m金メダル連覇という伝説の陸上アスリートであったから、ほかの競技ともども、一般の人に向けて陸上競技への訴求力もあったのかもしれない。

収容人数8万人という、オリンピックスタジアムでの陸上競技において、午前中に行われる予選も、ほぼ満員で大きな歓声に包まれた。


2012年の翌年の13年に、ブエノスアイレスのIOC総会で、2020年大会は東京で開催されることが正式に決まった。
そして2014年から大会組織委員会が立ち上がり、最初の職員70人程度のスタート時期から、私も日本テレビからの兼務出向で業務した。
当初は、「オモテナシ」というキャッチフレーズで準備を進めていく組織委員会で、やはり開会式の演出などについて、非公式ながらよく会話をした。
どんなアーチストが日本を代表するのにふさわしいか。
東京を表現する芸術や音楽は何であろうか。

直近で開催されたロンドンオリンピックこそが参考書であった。
ロンドンを中心にイギリスは、長い歴史と伝統に培われた文化として、音楽や芸能、そしてスポーツを育んできた。
そうした歴史や伝統を大事にする保守的なお国柄でもあるが、新しい時代に向けて革新的なものへチャレンジしていく気持ちを感じさせたのも、この2012年ロンドンオリンピックだった。古いエリアを再開発し、新しいロンドン創出に向けて動き出していたから、2020年の東京も同じような理念を掲げていたように思う。
大会ビジョンには、「スポーツには、世界と未来を変える力がある」とし、”全員が自己ベスト”、”多様性と調和”、”未来への継承”を基本コンセプトにしたのだ。

しかしながら、招致プランにおけるオリンピックパーク計画に関しては、脆弱で非現実であったことは告白しなくてはならない。
ロンドンは、再開発のエリアのスペースや新規交通手段も設けたのに対して、東京はベイエリアの開発スペースにオリンピックパークの規模はフィットしなかった。
ゆえに明確なオリンピックパークは設置しない方針となったが、それでも中心にいくつかの競技会場設置プランが当初はあった。
しかし、IBCに必要な面積をビッグサイトエリアに確保したら、レスリングやフェンシングの競技会場を幕張に移転するしかなかった。
私たちの当面のお手本は、ロンドンオリンピックだったのは間違いなかったが、それを踏襲できない諸問題を抱えていたのは残念だった。

話を2012年ロンドンオリンピックに戻そう。
パラリンピック発祥の地である伝統の力・・多くが学びの場所だった。
そして、私はそのころから、自分勝手に抱いていた「イギリスが保守的な国」というイメージが払しょくされた。

オリンピックをうまく利用した再開発などサスティナビリティ―(持続可能性)の精神に富んでいた。
広大なオリンピックパークの設置による、人が豊に集うテーマパークの実現もまじかに見た。
数多くのスポーツ発祥の地にふさわしく、スポーツを愛する観客でスタジアムは満員になった。
オリンピックのみならずパラリンピックも大成功に導いた。
そして、何よりエリザベス女王陛下自らが、ヘリコプターでスタジアムに飛び降りてくる驚愕の演出を、快く引き受けた。
開かれた皇室ともいえるこの対応に、この国の進取の精神も感じ取ったオリンピックだった。

以下(3)へ続く。

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