記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。
ロンドンオリンピックは、2012年7月27日に壮大な開会式で幕を開けた。
総合演出は、映画監督のダニーボイル、音楽監督をアンダー・ワールドが務めた。
開会式の予算は2700万ポンド(約33億円)をかけたと聞いたが、それに見合う圧巻のスペクタルだった。
動員されたボランティアは15000人、ほかに羊70匹、馬12頭、牛3頭、ヤギ2匹、鶏10羽、アヒル10羽、ガチョウ9羽、牧羊犬3匹が使用されたと聞いた。
式典のコンセプトは「The Isles of Wonder (驚きの島々)」で、産業革命前後のイギリスを表現する物語が続々と進行していった。
本番までに行われたリハーサルは、なんと200回以上であったという。
さらに『ピーターパン』『不思議の国のアリス』『101匹わんちゃん』『メアリー・ポピンズ』『チキチキ・バンバン』『ハリー・ポッター』などイギリスの児童文学や、ビートルズをを草分けとしたクール・ブリタニアと呼ばれるサブカルチャーもふんだんに取り入れられた。
これらすべての児童文学や、音楽を、世界中の多くの人々が知っているほど有名なものばかりであることに、イギリスの文化の深さに改めて恐れ入った。
そして何より驚いたのは、エリザベス女王のスタジアム来臨の方法であった。
ダニー・ボイル監督によるフィルム映像は、劇場で観る映画のようなオープニングで幕を開ける。
紳士のたしなみ、英国スーツの仕立て屋がカットする布地に描き出された、タイトル名は『幸福と栄光を(Happy & Glorious) 』だ。
現代のの4Kなどに代表される高画質VTRではなく、フィルムにしたのは、往年の名作映画仕立てにしたかったのだろうか。
画面は、ダニエル・クレイグが演ずるジェームズ・ボンドが、エリザベス女王をバッキンガム宮殿に迎えに行くシーンから始まる。
宮殿から、どうやらオリンピック会場へエスコートする設定らしい。
ロンドンタクシーに乗って、タキシード姿のジェームズ・ボンドが女王に謁見する。
バッキンガム宮殿の中は、やはり王室の館にふさわしい重厚な雰囲気が漂っている。
やや緊張したジェームズ・ボンドの表情が印象的だ。
そして、まぎれもないエリザベス女王本人が、宮殿内の私室でボンドを出迎える。
よくプライベートな部屋を撮影させてくれたものだと感心した。
そしてお洒落なピンクの衣装に身を纏った女王は、宮殿の外で待機していた1台のヘリコプターにボンドと一緒に搭乗し、タワーブリッジなどロンドン各地の名所の上空を飛びながらスタジアムに向かう。
ビッグベン、チャーチル像、ロンドンタワーブリッジ・・女王のフライトを多くの群衆が見守る。
そのあとは、撮影映像とスタントマンをミックスさせた演出となっており、映像の中でヘリコプターがスタジアム上空に差し掛かると同時に、ジェームズ・ボンドのテーマに合わせてリアルなヘリコプターが飛来する。
あの音楽を聴くだけで、何が起こるのかワクワクする。
映像では、ボンドがヘリのドアを開け、スパイの仕草そのままに、周囲の安全を慎重に確認する。
そして女王、続いてボンドが、一気にドアから闇夜の空にバーンと飛び出した。
あのエリザベス女王が、スタジアムに空から降りてくるのだろうか。
ユニオンジャックのパラシュートがパッーと開いて、女王はスタジアムへと降下を始めた。
その直後、本物のエリザベス女王がスタジアムの貴賓席に登場した。
007と一緒に、女王はスカイダイビングして、そのまま着席したという設定だったのだ。
実際には、収録してあった女王のダイブシーン映像と同時に、リアルタイムでは2人の服装と同じ衣装を着たスタントマンが降下してきたという、からくりではあった。
驚きの混じった大歓声がオリンピックスタジアムに響き渡る。
いかんせん、あの女王が空から降りてきたのだから。
とっておきの映像と、リアルな現場が見事に融合した瞬間だった。
そして、イギリス国旗が掲揚され、聴覚障がい児童のケイオス合唱団が、イギリス国歌「女王陛下万歳」を披露した。
これで2012年ロンドンオリンピックのスペシャルバージョンというべき、たった一夜の007シリーズ『幸福と栄光を(Happy & Glorious) 』が完結した。
国歌の一節には、『幸福と栄光を(Happy & Glorious) 』の歌詞がある。
007シリーズはかつて劇中のセリフから、すべてのシリーズに映画のタイトルが付けられてきた。
オープニングのタイトルを思い出した私は、そこですべて納得した。
ため息が出るほど素晴らしい演出だった。
もちろん開会式の主役はアスリートであり、その入場行進は欠かせないものだが、開催国の多様な文化を表現することが、IOCの開会式プロトコールに入っている。
そしてそれこそが、毎大会違う内容であり、世界中が楽しみにしているものだ。
ロンドン交響楽団によるヴァンゲリスの『炎のランナー』のテーマ演奏が行われたが、その楽団の中に、ローワン・アトキンソン演じるMr.ビーンが一人混じっていた。
シンセサイザーを演奏しながら演奏の傍ら携帯をいじったり、鼻をほじったりするなどして観衆を笑わせた。
まずこのコメディー俳優の名前のクレジットが不要なほど、世界中に有名だから、登場してきた時から何かあるぞと思わせた。
そして式典の締めとして登場したのが、ポール・マッカートニーだ。
ポールが弾くピアノソロからスタートした曲は、ヘイジュード(Hey Jude)だった。
イントロで少し異変が起きた。
ポールが歌いだす前に、機材の不調なのか、あるいはバックアップ用の口パク用テープが流れてしまったのか、有名な歌いだしの、ヘイジュードと呼びかける部分が、重複してしまった。
原因はよくわからなかったが、それでもポールは何事もなかったかのように、5万人の大観衆の前で、歌を紡いでいった。
途中からポールの呼びかけで、8万人もの大観衆によるアカペラのヘイジュードも、大合唱となってオリンピックスタジアムにこだました。
開会式を見届けてから、宿泊ホテルに帰った。
大会中の宿泊先は、グレートポートランドのメトロ駅の近くで、キングスクロス駅にも比較的近い、ちょっとした下町風情のある瀟洒なホテルだった。
明日も早いからと、ベッドにもぐりこんだが、なかなか寝付けなかった。
頭の中は、今夜の開会式の演出がぐるぐると駆け巡った。
産業革命前後のイギリスを表現した大掛かりな演劇、007とエリザベス女王、ミスタービーン、そしてポール・マッカートニー・・。
そうか、もうジョン・レノンはいないけれど、やはりイギリスが生んだ偉大なバンド、ビートルズは開会式に欠かせない。
ミスタービーンのあのおどけたような表情、人を本当に楽しませるコメディアンだ。
そういえば、かの喜劇王・チャールズ・チャップリンもロンドン出身だった。
映画007は、日本でも有名になった。ショーンコネリーの演じたジェームス・ボンドが渋かったが、開会式に現れたダニエル・クレイグのボンドも粋だった。
この国の政治や文化、音楽といった歴史に少しだけジェラシーを感じたのはなぜだろうか。
開会式もとうに過ぎた真夜中の3時ごろ、ホテル近くのストリートから、酔っぱらった若者たちの歌声が聞こえてきた。
それは、ポールマッカートニーの”ヘイジュード”だった。
深夜のへたくそなアカペラ、それはそれでなぜか心に染みた。
心地よい疲れに身を任せながら、私はこの幸せな時間のまどろみの中にいた。
こうして始まったロンドンオリンピックは華やかでもあり、住民の理解や支持を得られた幸せな大会であったと思う。
イースト地区にオリンピックパークを展開し、再開発のきっかけも作った。
サスティナビリティ―(持続可能性)を掲げて、スタジアムの再利用などもあらかじめプランに入っていた。
いうまでもなくサッカー、ラグビー、テニス、ゴルフ、クリケットなど多くのスポーツの発祥の地であることも大きい。
この国の人々の生活には、本当にスポーツ文化が浸透しており、様々な文化同様に、スポーツへの造詣、愛情は深いと思うのだ。
だからイギリスの中心であるロンドンで開催されるオリンピックは、楽しみにあふれていた。
ちなみにロンドンは、夏のオリンピックを1908年、1948年と開催しており、今回は史上初の3回目だ。
それにしても、開会式の演出からあまりにも印象的だった。
やはり”エリザベス女王が空から降りてきた”という前代未聞の演出が、強烈なインパクトを与えたと思う。
まさに開かれた王室というものを、地でいくようなものだった。
保守的な伝統を重んじることが優先される国、イギリスというイメージが少し変わったように、私には感じられた。
こうしてホスト都市としての誇りが、街全体に満ちていたような気がした、ロンドンでの忘れがたい日々が始まった。
以下、(2)へ続く