Essay

シリーズ・記憶の解凍⑰「1996年アトランタオリンピック」~連続ドラマ”日本サッカーの奇跡”の最終回はいつか?~(後編)

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

「ベルリンの奇跡」から28年、第2次世界大戦を経験した日本のサッカーの歴史も歩みを続けた。
戦争で失った多くのものを、取り戻そうとするかのような高度経済成長の真っただ中、1964年、東京でオリンピックが開催された。
それでも、後年アトランタオリンピックの「マイアミの奇跡」を起こすまで、あと32年の歳月を待たなければならなかった。

第二話は1964年東京オリンピックが舞台だ。
そして主人公はデットマール・クラマー氏と、その教え子たちだ。

アジアで初めてのオリンピック開催という重責を担ったことで、日本のスポーツ競技界が活性化したのは間違いない。
自国開催だから自動的に出場できる反面、きちんと強化しなければ恥をかくことになる。
強化のために、サッカー先進国西ドイツから招へいした一人の優秀なサッカーコーチが、日本の将来を変えた。
デットマール・クラマー氏、当時35歳、ドイツサッカー協会からの派遣と聞いたが、日本側が支払うギャラは高額なものではなかったと聞く。
彼の功績はあまりに偉大で、数行で表現できないが、サッカーの基本テクニック、戦術のみならず、人間力の磨き方、文化としてのサッカーの理想まで説いた。

実際、その教え子たちは急成長したし、彼の提唱で東京オリンピックの翌年、日本サッカーリーグ(JSL)が発足した。
定期的なリーグ戦という場で切磋琢磨しなければ、底上げにつながらないと、当時はアマチュアリーグであったが、28年後のJリーグにも繋がっていく。
教え子と自称する人物が、オリンピック代表選手にいた。
初代Jリーグチェアマンに就任した川淵三郎氏だ。
川淵氏は奇遇なことに1936年、あのベルリンの奇跡の年に生まれた。
グループリーグのアルゼンチン戦で貴重なゴールも挙げて、日本の3対2勝利にも貢献した。
アルゼンチンは若くても後にワールドカップで活躍する選手もいるセミプロのような強豪で、日本がこの勝利に沸き返った。

"南米の強豪アルゼンチンに勝つ" "ベルリンの奇跡再び" "28年ぶり、日本サッカーの勝利"
メディアは"予想外"の勝ちを大きく報じ、1964年10月14日もまた、日本サッカーにとって忘れることのできない日の一つとなった。

もちろん、このアルゼンチン戦の勝利とオリンピックベスト8進出は、奇跡的と呼んでもいいのかもしれない。
しかし本当に奇跡だったのは、クラマーさんと日本サッカーとの出逢いだったのではないかと思う。
東京オリンピック開催がなかったら、日本サッカー協会も、強化のために、ここまで必死にドイツ協会にコーチ要請のアプローチしなかったかもしれない。
ましてや、予算も十分にない中で、日本人に適任のコーチなど簡単に見つかるはずがないからだ。
1960年代初頭に、ドイツから言葉も通じない日本に来て、日本人以上に日本の武士道的精神を持ち、日本サッカーを命がけで育てたクラマーさんに感謝である。

第三話は、1968年メキシコオリンピック大会での銅メダル獲得というドラマだ。
主人公は長沼健監督、岡野俊一郎コーチ含めて、当時のイレブン全員であるが、その中でも主役を張ったのは、得点王にも輝いた釜本邦茂と、黄金の足と言われた杉山隆一だろう。

ナイジェリア、ブラジル、スペインと同組で死のグループリーナイジェリアに勝ち、ブラジルと引き分けて、スペイン戦では、あえて狙った引き分け作戦まであった。
引き分けても2位通過なら、準々決勝で地元メキシコと当たらないですむことから、長沼監督はベンチから引き分け狙いの指示を出すが、一向にピッチの選手には伝わらない。
シュートがポストに当たる。ベンチは冷や冷やする。
それまで、勝たなくてもいいなんて指示を選手は受けたことがなかっただろう。
しかし結局ベンチの思惑通りに0対0で引き分けて、続く準々決勝のフランス戦に3対1と快勝し、初のベスト4に進出した。

準決勝では優勝したハンガリーに5対0と歯が立たなかったが、3位決定戦で地元メキシコを2対0と撃破し、銅メダルを獲得した。
この試合は、2得点とも杉山からのパスを釜本が見事にゴールに結びつけた。
終了間際には、地元のメキシコサポーターからも「ハポン、ハポン、ラララ」の大合唱が起こった。
ハポンはスペイン語(メキシコの公用語)で、日本の意味、対戦相手日本への応援コールだった。それほど日本のサッカーは魅力的だったのだ。

それから日本のサッカーは、すっかり停滞をしてしまったようだ。
ワールドカップはおろか、オリンピック出場すら叶わない冬の時代が続いたのだ。

大きな出来事があった。これをあえて第四話にしてもいいだろう。
それは1993年の、Jリーグ開幕である。
東京オリンピックの主役の一人だった、川淵三郎さんがチェアマンとして、その開幕を高らかに宣言したJリーグ開幕。
日本でプロ野球に次ぐプロリーグ誕生は、確かにサッカーの歴史を変えていくターニングポイントになった。
1988年にプロ準備室ができてから、本当にプロができるのか?疑心暗鬼の関係者、世論もはねのけて、この誕生自体が奇跡のような気がする。
開幕戦は5万人の大観衆を集め、テレビ視聴率も35%と驚異の高視聴率をたたき出した。

しかし、その後やはり奇跡はそう簡単には起きない。
1993年の5月にJリーグが開幕して、わずか5か月後の10月のことだった。カタール・ドーハでのアジア最終予選で、初めてのワ-ルドカップ出場はならなかった。
最終戦イラクにロスタイムでゴールを許し、勝利ならず無念の引き分け。日本中の悲鳴が聞こえた夜だった。
「ドーハの悲劇」・・初めてのワ-ルドカップ出場はならなかった。
一方、自力優勝が消滅していた韓国では、日本の引き分け脱落により出場決定、逆に「ドーハの奇跡」と呼んだ。


では、そこから3年後、1996年アトランタオリンピックでのブラジル戦勝利は、第五話にして最終回であったのか?
答えはもちろん否であろう。
確かに「マイアミの奇跡」は、日本サッカーのさらなる新しい歴史に向けて、大きな光を灯した。
そして、その後もいくつかのドラマは生まれたが・・。

1996年、日本と韓国でのワールドカップ共同開催が決定した。
1997年、日本がイランを破り、ついに念願のワールドカップ初出場を決め、「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれたが、「ジョホールバルの奇跡」とは呼ばれなかった。
1998年、フランスワールドカップでは一勝もできなかった。しかし中山は歴史的な初ゴールを記録した。
2002年、日本は韓国とワールドカップを共催した。トルシエジャパンはベスト16を果たした。
2006年、ドイツワールドカップでのジーコジャパンは、1勝もできずに敗退した。ブラジルに完敗した試合後に中田英寿がピッチに倒れこんで、大会後に引退した。
2010年、病に倒れたオシム監督を引き継いだ岡田ジャパンは、下馬評を覆して、南アフリカ大会ベスト16に。しかしパラグアイにPK戦で敗れてベスト8はならず。駒野のシュートがバーに阻まれた。
2014年、リオワールドカップで期待されたザッケローニジャパンは、グループリーグ敗退。長友が内田が、インタビューゾーンで泣いた。
2018年、ロシアワールドカップでは、大会直前に解雇されたハリルホジッチ監督の後を受けて、西野ジャパンがベスト16入り。
ベルギーを最後まで追い詰めたが、後半終了間際、ベルギーの超速攻のカウンターという、「ロストフの14秒」に散ってベスト8ならず。
2022年、カタールワールドカップは、森保ジャパンがグループリーグで、ドイツ、スペインを撃破しベスト16入り。
スペイン戦では、「三笘の1ミリ」も生まれたが、クロアチアとのPK戦で敗れて、悲願のベスト8ならず。南野、三笘、吉田と3人が外して、2010年同様にPK戦で涙をのんだ。

歴史を、マイアミの奇跡以降の、オリンピックに絞ってみる。

2000年シドニーでは中田英寿、高原直泰ら、黄金世代を擁しながらベスト8敗退。アメリカとのPK戦で、中田のシュートはポストに阻まれる紙一重の勝負だった。
2004年アテネは1勝もできずに、グループリーグ敗退。すべて1点差負け、悔しいが力の差もあった。
2008年北京でも1勝も挙げられず、グループリーグ敗退。オーバーエイジ枠無しで臨んだこの大会も、全試合で1点差負け、日本の得点はわずかに1であった。
2012年ロンドンでは、グループリーグでスペインを1対0と撃破。4試合連続無失点も、韓国との3位決定戦に敗れて、1968年以来の銅メダル獲得のチャンスを逃した。
2016年リオでは、グループリーグで1勝を挙げるも敗退。またメダルが遠くに感じた夏だった。
2020年東京(コロナ禍で1年延期、2021年開催)では、期待のホープ、久保建英を擁し、オーバーエイジ枠にA代表の吉田麻也らも起用した。
史上最強ともいえるチーム力での自国開催で、今度こそ歴史を塗り替えると意気込んでいた。
準決勝のスペイン戦は、アディショナルタイムに逆転ゴールを許した。
銅メダルを賭けた、メキシコとの3位決定戦は1968年の再現対戦カードだった。
しかし今度は地元の日本が敗れ、銅メダルを逸するというドラマが待ち受けていた。

先に挙げたエピソードの映像の多くは、私の頭の中にも残っているが、全ての出来事は、放送局のアーカイブにきちんと保存されている。
しかし、1936年のベルリンの奇跡以降、多くのドラマの主人公が現れては消えた。

ベルリン以降、暗い戦争の犠牲になることもない平和な時代になっても、まだ日本は本当の奇跡を起こせていないのではないか。
ベルリンの奇跡から88年、メキシコの銅メダルから56年、マイアミの奇跡から28年が経った。

一方で、もう日本のサッカーは一つ一つの勝利に奇跡というタイトルは不要なほど、成長してきたという意見もあるだろう。
確かに奇跡とは、千回、いや百回戦っても一度も勝てない相手に勝利する様なものであるから。

岡田武史さん(日本サッカー協会副会長)が使う独特な表現がある。
ドーハの悲劇の時には、「この代表は、アジアの中で戦って10回のうち5回勝つチームに成長した。僕らの時代はわずか3回だった」
2022カタールワールドカップの前には、「今の日本ならドイツと10回戦って、ひょっとしたら3回は勝つチャンスがある」と語っていた。
緻密な戦力分析の上での、いわゆる確率論のことだろうか。
もちろん奇跡については数値化などあり得ないが、要は日本のサッカーは奇跡を起こさずとも、世界の強豪に対峙していける時代にはなったということか。
2022年ワールドカップにおける、ドイツ戦、スペイン戦の勝利を、もう誰も奇跡とは呼ばない。

それでも日本は、オリンピックで、1968年の銅メダル以来、一切メダルにも届かない。
アトランタ以来7大会連続出場、通算では11回出場を果たしているにも関わらずだ。

ことワールドカップに関しては、アジア代表として、7回連続出場と大会の常連にこそなったが、ベスト16が3回あるだけで、ベスト8以上はない。
2002年日韓ワールドカップで、韓国はベスト4に入っていることを忘れてはいけない。
新しい景色を見ようという言葉は、それ自体素敵なことだが、その実現には、本当の力の裏付けは絶対に必要だろう。

そして、これから起きるであろう劇的な勝利などを、わざわざ奇跡と呼ばなくても構わない。
ただ、森保ジャパンが掲げる、2026年ワールドカップ優勝が本当にアメリカで実現したら、私はそれを奇跡と呼ばせてもらおう。
日本サッカー協会が2005年に宣言した、2050年までにワールドカップをもう一度日本で開催し、その大会で世界一になるという夢も、実現した時にも、私はそれを、あえて奇跡と呼ぶだろう。
世界200か国以上で広く、深く、そして100年以上の長い歴史のもとで愛されてきたサッカーで一番になるということは、やはり奇跡なのだと思う。

そろそろ連続ドラマ”日本サッカーの奇跡”の最終回をみてみたいと思う。

サッカーを題材にした、世界で一番有名かつ愛されている漫画がある。
1981年から週刊少年ジャンプで連載され続けた、高橋洋一さんの「キャプテン翼」の物語だ。
日本の多くの少年たちが、この漫画を読んでサッカーに取り組んだ。
あのメッシも愛読したという。

そんな大空翼君たちのチャレンジのドラマは、日本チームの世界での活躍を予言するかのようなストーリーが展開されてきた。
2024年で43年目を迎え、高橋さん自身は「ここ数年、この先の物語をいったいどこまで描けるのか、ずっと考えていた。そして今回、最後まで連載にこだわり体力の限界まで“漫画”を描き続けるよりも、連載をやめ「キャプテン翼」の最終回までの“物語”を残す決断をしました。」とのこと。
そして2024年1月に連載は終了となった。
キャプテン翼の最終回は、いったいどのような物語で締めくくられるのだろうか。

いや、何より日本サッカーのリアルな奇跡の物語は、いったいいつどこで完結するのだろう。
現在の森保ジャパンは、ドラマ”日本サッカーの奇跡”の最終回を見せてくれるだろうか。

そして、この長編大作ドラマが完結してもなお、また違ったタイトルで、新しい日本サッカーのドラマが始まるに違いない。
キャスティングされる主役候補は、いま全国に大勢いる、サッカーを愛する少年たちだ。

-Essay