Essay

シリーズ・記憶の解凍⑯「1960年ローマオリンピック」~白黒の古代都市と裸足のアベベ~

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

永遠の都、ローマ・・。
ローマは美しい街だ。何度訪れても、そこには歴史の深い香りがしみ込んでいる。
1960年、8月25日から9月11日まで、イタリアのローマで開催された夏季オリンピックでは、古代から復元された場所を競技会場として使い、古代と現代を融合させることを目指した。
観光地でも有名なカラカラ浴場では体操競技が行われ、マクセンティウス大聖堂ではレスリングが行われ、フィールドホッケーは大理石競技場として知られるスタディオ・デイ・マルミで行われた。
さらに、マラソンで選手たちは、コロッセオをはじめ由緒ある歴史的な建造物を巡り、アッピア街道をひた走り、最後に白い大理石で造られたコンスタンティヌス帝の凱旋門を目指した。


ローマオリンピックのマラソンと言えば、多くの人が、エチオピアのアベベ・ビキラの名前が浮かぶだろう。
ローマで金メダル、翌大会の東京でもマラソンで優勝と2連覇した、走る哲人のことである。
1964年での走る姿をNHKの中継や、市川崑監督の「東京オリンピック記録映画」で、刷り込まれるように映像を見せられたから、なおさら強烈な印象があるのかもしれない。

1960年はまだ、世界的にもテレビ放送は白黒時代であり、スポーツの生中継などもまだ技術的に成熟していない頃である。
日本では1953年にNHKと日本テレビが開局し、1960年にはいくつもの民放局が放送を開始していたが、カラー放送はほとんどなかった。
オリンピックの放送もNHKが、ローマ現地で地元イタリアの放送局ライ(RAI)を中心とした組織が制作した中継映像の録画を日本に空輸して、録画放送していた。
しかもほとんどが編集したダイジェスト版放送であった。
ましてやマラソンなど2時間以上のレースをフルに放送する機会もなく、レース途中の模様と、ゴールの様子をニュース的に放送していたようである。
だから、多くの人にとって1960年のアベベの記憶は、闇夜のローマを走り抜けて裸足でゴールインした短いニュース映像によるものだろう。

私も、マラソンのゴールが夜だったこと、アフリカの選手が裸足でゴールしたという衝撃的な事実で、アベベのことを知った。
1960年にまだ3歳だった私は、その4年後の東京オリンピック開幕が迫る小学1年生の頃に、テレビのローマ特集で観たのだろう。
しかも私のかつて見た映像は、全て白黒(モノクローム)であったから、まだ見ぬローマの街もまた、白黒の世界の中にあった。
白黒の映像はどこか郷愁を覚えるし、外国の風景などは、神秘的な気持ちになるから不思議でもある。

ローマオリンピックのマラソンの件で、実はアベベはスタート時はシューズを履いていたが、猛暑と靴擦れのため、レース途中でシューズを脱ぎ捨てたと聞いたことがある。
なるほど、それは面白いエピソードだなと思ったし、さもありなんだとも思った。
いくら何でも最初からシューズなしで42.195㎞を走るランナーなんているわけがない。
そして現に、1964年東京大会でアベベは、真新しい白のランニングシューズを履いて快走していたではないか。
いずれにしても、私が昔から通常に目にしていた白黒映像には、スタート時のアベベの姿はなく、レース中盤以降から印象的なゴールのシーンに編集された短いものだけだったから、スタート時にシューズを履いていたかどうかもわからずじまいだった。

つい最近、ローマ大会のマラソンの様子をIOCが正式に撮影しアーカイブに残した映像を確認することが出来た。
意外であったが、それはカラー映像であった。
最新の技術で白黒からカラーに当時の臨場感をよみがえらせたのだろう。

さらに、驚くべきことを発見した。
スタートした選手たちをとらえた映像の中に、本当に一瞬だがゼッケン11のエチオピアの選手が全身の後ろ姿で映った。
多くの選手集団に紛れて最後方に位置していて、顔も見えなかったが、明らかにビキラ・アベベであり、間違いなく裸足だった。
他にゼッケン12のエチオピア選手も映ったが、同僚の彼も裸足であった。詳しく調べればわかるのかもしれないが、私には名前すらわからない。
いずれにしても普段から裸足で練習していたあの時代には、そのほうが彼らには走りやすかったのだろうか。
貧しくて中古のシューズ一足しか持たずにローマ入りして、そのシューズが練習時に壊れたから、仕方なく本番は裸足で走ったという話も聞いたが真相はわからない。
しかし、アベベはスタートから裸足だったことだけは確かだ。

IOCアーカイブに残された約10分のVTR映像をなぞってみる。
裸足のアベベは、美しく歴史の重みを纏ったローマの街を駆け抜けた。
マラソンのスタートは今でも観光名所の一つ、カンピドリオの丘だ。
ミケランジェロが描いた幾何学模様の美しい広場が、アスリートたちの旅立ちを見守った。
アベベの表情はスタート地点では伺えないままだ。
しかし、号砲と共に一斉にスタートした後方集団の中に、ゼッケン11を付けた裸足のアスリートは確かにいた。

そして選手集団は、コロッセオの脇をすり抜けていく。
ローマの中心地は、アップダウンと石畳の連続だ。
まだアベベは映像で確認できないほど、集団に埋もれていた。
古代ローマでは、コロッセオにおける戦いの勝者には栄誉とお金と、観衆の称賛が与えられた。
アベベは、息をひそめるようにして、いつかトップに躍り出るプランを練っていたのかもしれない。

15kmを過ぎて先頭集団に入り、30kmでトップに躍り出た。
アフリカ大陸にあるエチオピアは、かつて1937年から41年までイタリアに占領されていた。
その占領国であったイタリアの首都における勝利というものが、母国にどのような希望をもたらすかを、アベベは知っていたはずだ。

古代ローマの栄光をもたらし、見届けてきたアッピア街道を、ひたすら裸足のランナーが走る。
後に「走る哲人」と呼ばれたアベベは苦しい表情は一切見せず、トップを維持する。

夕方5時半過ぎに始まったマラソンはナイトレースになった。
すっかり日没になったローマの街は漆黒の闇の中にあった。
コースは、歴史的建造物のライトアップと、無数のたいまつ(トーチ)で神秘的に照らされていた。

そして夜の7時47分にフィナーレを迎えた。
コンスタンティヌス凱旋門に設けられたゴールに、暗闇のアッピア街道からゼッケン11をつけたランナーが駆け込んできた。
2時間15分16秒の、世界最高記録を達成して、アベベは、東アフリカ勢初の金メダルを獲得した。
レース前には無名ともいえるエチオピア人の快走は、42.195㎞を裸足で走り抜いたという事実も相まって、衝撃が世界中を駆け巡った。

ゴール後に「まだ余力はある。走れと言われればもう20kmぐらい走れる」と話したのも、あながち強がりではない。
アベベの優勝に熱狂し、アベベはエチオピアの英雄となった。この功績により、帰国したアベベはハイレ・セラシエ皇帝に拝謁し、勲章を授与され、軍人としても出世した。
1960年は、17のアフリカの国が続々と独立を達成して、アフリカの年と呼ばれた。
アベベの優勝は、国づくりのスタートラインに立った多くのアフリカの人々を勇気づけた。
それまでは縁のなかったスポーツに取り組む気運も一気に生まれ、さらにスポーツのみならず生活環境改善などにも役立ったに違いない。
ただし同じアフリカでも、南アフリカは、このローマ大会を最後に出場が途絶えた。
同国のアパルトヘイト政策に対する国際的批判が要因で、五輪復帰はアパルトヘイト政策が中止され、黒人中心の新政権が発足した後の、1992年バルセロナ大会まで32年間を要したという事実も忘れてはならない。

いずれにせよアベベの優勝は、アフリカの高地民族が長距離走への適性を持つことを世界に知らしめた。
エチオピアは、空気の薄い標高2,000m前後の高地にあり、そこでのトレーニングは、心肺機能を高めるのに適しているのではないかという見解が示され、陸上競技に高地トレーニングが導入されるきっかけともなった。

そして何より、今のマラソン界を見ても分かるように、スピード時代の最先端は、エチオピア、ケニアといったアフリカ諸国である。
今や男子の世界最高記録は、ケニアのケルヴィン・キプタムが持つ2時間0分36秒である。
アベベから始まったと言われる高速スピードのマラソンは、ついに2時間を切る1時間台に突入しようとしている。
それでも1960年から64年が経過してもなお、人類はわずか15分の記録短縮を成し遂げたに過ぎないのも、いかにマラソンの進化が難しいかを感じさせる。

そして2024年2月に、そのキプタム選手が交通事故で亡くなった。あまりに悲しい出来事だった。
パリオリンピックでは、夢の1時間台を期待していただけに残念でもあり、追悼の意を表したい。

さて、テレビの観点から話題をもう一つ。
ローマ大会は、世界的に大規模な放送が行われた初のオリンピックであった。
アメリカのCBSはニューヨークで大会の模様を録画放送し、ユーロビジョンはヨーロッパ全土にライブ放送を提供した。
イタリア国内では全競技がイタリア国営放送(ライ=RAI)を通じてテレビ放送された。

日本のNHKは、1959年にすでに開催が決定していた1964年東京オリンピックの放送準備を着実に進めていたようだ。
当時の様子を、元NHKの杉山茂氏(1959年入局、元NHKスポーツセンター長、JC団長ほか多数経験)に伺う機会に恵まれた。

先に述べたように東京大会の準備を進めていたNHKはローマの大会も積極的に報道する姿勢を持っていたという。
しかし今のように回線による伝送は技術的に難しく、競技の模様を収録したテープをローマから東京に空輸していたそうだ。
入社間もない杉山さんは、そのテープを回収するために、羽田空港に日参したという。
当時は2インチVTRに収録されたオリンピック素材をせっせと運んだそうだ。

2インチVTRとは、1950年後半から80年代初めまで業務用で使用された放送録画テープであり、テープ幅が2インチ=5.08 センチもある。
専用の再生機でしか見られないし、編集も難しいと言われた。
1981年日本テレビ入社の私も辛うじて業務使用したことがあるが、再生しないと映像が見られない。しかも持ち運ぶと、すごく重たい。
今のように軽くて薄くて、早送りでも映像を見ながらなどという、ディスクやUSBなどのデジタル時代からは隔世の感がある。
さらに杉山さんが言うには、事前に予定したVTRはよいが、急遽必要になったVTRは、ローマから飛行機に乗り込んだ一般乗客に頼んで、東京に持ち込んでもらったことも幾度とあったそうだ。
依頼する相手は、主に商社の方が多かったというが、おおらかな時代であったのは間違いない。

さらに杉山さんの回顧によれば、NHK以外の民放局は、史上初のオリンピック報道にはもちろん興味があったかもしれないが、いわゆる放送権、中継ホスト制作といったことの事情には疎かったようだ。
あえて言うと、民放局の幹部は新聞出身の方が多く、活字メディアの経験こそあるが、放送案件についてはまだ考えが及んでいなかったらしい。
いずれにせよ羽田空港から重いテープを運んでいた新人の杉山さんは、4年後若手ながらNHKの中心メンバーの一人として、全世界に向けた国際映像制作に携わった。

そして時代は白黒(モノクローム)からカラー放送へと転換していく。
ローマから4年後の東京オリンピックは一部ではあったが、カラー放送を実現した初の大会だった。
NHKはホスト国の放送局(ホストブロードキャスター)として、オリンピック映像制作を一手に引き受けて、世界に発信した。
NHKは国際映像(モノクロームでの制作、放送界ではモノクロと呼ぶことが多い)制作に74台、中継車18台、ビデオテープ機46台、スタッフ約2200人を投入したと杉山さんから聞いた。

マラソン中継では、スタートからゴールまで移動中継車を走らせて、完全生中継というオリンピックでは初めての体制を実現した。
しかしながら、当時は移動中継車は1台のみ、伝送回線数なども少ないので、現在と違い先頭集団のランナーしか生放送でとらえきれなかった。
だからこそ、レースで終始先頭をひた走るアベベの姿が、日本中の視聴者の目に強烈に焼き付いたのだ。
またローマと違い、アベベはランニングシューズを履いて金メダルを獲得した。
そして残念ながらレース序盤から最後の方までトップ・アベベには引き離されていた、日本の円谷幸吉(銅メダル)の映像は、競技場近辺のみに限られたのだ。

ちなみに市川崑の「東京オリンピック記録映画」の中でも、フィルムカメラはずっとアベベの顔のアップを中心に描き続けた。
後で編集したものだが、全身のフォームの印象よりも、その哲学者のような顔の表情こそが、後に「走る哲人」と呼ばれた所以のような気がする。

その後のアベベの人生についてである。
1968年のメキシコオリンピックにも出場しながら、故障もあって途中棄権に終わり、前人未到のオリンピック3連覇はならなかった。
さらに1969年3月、母国で車を運転中に単独事故を起こし重傷を負い、下半身の自由を失い、車いすの生活となった。
それでもパラリンピック発祥の地として知られる英国・ストークマンデビル病院で治療を受け、同病院で開かれていた国際ストークマンデビル競技大会にはアーチェリー、卓球などで2度も出場した。
しかし1973年10月、41歳の若さで死去。不世出のランナーは、ものすごいスピードで、この世を駆け抜けてしまった。
それでもマラソン競技の歴史から、その偉大な足跡が消えることはない。
ローマが永遠の都であるのと同じように、アベベもまた時代を超えて、人々の記憶に永遠に刻み込まれている。

たらればではあるが、事故の前のアベベが全盛期に、もう一度裸足でローマのマラソンコースを走ったら、いったいどのような記録が出たのだろうか。
もう裸足で走る必要もないほど、豊かになったエチオピアという国、そしてアフリカの新興、そしてアベベ自身が勝ち得た富と名誉を考えたら、それは意味のない妄想かもしれない。
それでも42.195㎞を、人間の足で走破するというプリミティブ(原初的)なスポーツにおいて、裸足こそが本来の人間の持つ力を引き出すのではないだろうか。
しかし人間はもう、裸足で生活した古代の時代には戻れないだろう。古代ローマの時代でさえ、もうすでにサンダルを履いた生活を営んでいた。
今では裸足とは、なんと野蛮な、という人さえいるかもしれない。
何より都会の街では、道路にゴミや何かガラスの破片でも落ちていないとも限らない。
裸足で颯爽と街中を走るという快感、現代社会では、もうその夢は叶わないことだけは間違いない。

コロナ禍で行けなかった海外旅行で、昨年10月に久しぶりにローマを訪れた。
64年前とは言え、この歴史的な都市でオリンピックが開催されたこと、マラソンランナーがこの石畳を走った事に、想いを馳せた。
今でも全世界の人々をひきつけてやまない、ローマの街を歩き回った。
カンピドリオの丘も、コロッセオも、パンテオンも、フォロロマーノも、サンピエトロ寺院も、世界中からの多くの観光客でごったがえしていた。
昼間のぞいたブテイックのショーウィンドーには、目にも鮮やかな地中海ブルーのスニーカーが飾られていた。
そして夜になると、街中の石畳は、すべてモノクロームの色に染まって、切ないほどに美しかった。




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