Essay

シリーズ・記憶の解凍⑮「1992年バルセロナオリンピック」~地中海都市の輝きと多様性へのプロローグ~

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

1992年の夏、地中海の一都市バルセロナは煌めいていた。
7月25日から8月9日まで、猛暑でありながら湿気の少ない、さわやかな風も吹き抜けたこの街での16日間は輝いていた。

今から32年も前のオリンピックは、時代背景も含めてオリンピックの価値が高まりつつある気配があった。
1984年ロス大会の商業主義オリンピックには批判もあったが、その時以来、開催予算の安定により優れた運営力も確保されるようになった。
また競技ごとのプロ選手参加承認が進み、この大会のバスケットボールでは、NBAのスーパースターを擁したアメリカによる”ドリームチーム”の参加が実現した。
さらに、後年このバルセロナオリンピックの評価がとても高い理由の一つに、都市のさらなる再生へに向けた弾みの一つになった事が挙げらている。

産業革命を経てもなお、19世紀以降の都市開発において、なかなか進まなかったバルセロナ。
もともと城塞都市だったものを、1859年イルデフォンク・セルダの「大拡張計画」により、新市街は生まれ変わった。
133.4m四方の正方形を一区画として、碁盤の目の様に南北に道路、街区を整備したものであった。
ご丁寧に正方形の街区の四隅は15mほど削られた形になっており、通りの見通しの良さや、街路樹の設置にも適応している。
さらに人のアクセスにも配慮したらしいから、すごい都市計画だと感心する。

詳細は専門家による論文などに譲るとして、確かにバルセロナを訪れるたびに、人に優しい都市空間というものを感じることが多い。
以下は私なりに1992年当時のみならず、その後2000年代に入ってからの旅においても受けた街の印象である。
まずは、そぞろ歩きがしやすく、ウォーキングで街をめぐることへの快適さがある。
自家用車を使わなくとも、公共交通機関で速くスムースに移動できる。
街の多くは、緑の樹々に囲まれていて公園も充実している。そして何より港のエリアは地中海の風が吹き抜けて心地よい。
いつもバルセロナのシンボルともいうべきサグラダファミリアが、悠然とそびえたつ美しい街である。

1992年とは、どういう時代だったのか。
1989年のべリリンの壁崩壊に象徴されるように、東西冷戦が雪解けを迎えて、新しい時代へ進む予感にあふれていた。
ソ連やユーゴスラビアなど、連邦という形で統治していた国々が分裂し、その他、民族主義による国の立ち上げも進行していた。
そういった政治的な背景自体をはらむ変革に対しては、当時それを一般的に多様性と呼ぶ時代ではなかったとは思う。
しかし、これらもまた従来の価値観の崩壊や、過去の束縛からの脱却、世界的な交通網の発達に伴って生まれた多様な文化交流も合わせて、今の時代における多様性へのプロローグであったと私は思う。
そうした観点から、バルセロナオリンピックも、いくつかの新しい価値観の発露や、従来通りではないやり方が採用された大会として記憶に残っている。

開会式の聖火点灯のやり方には世界が驚いた。
最終ランナーが運んだ聖火を、ある人物が60mも先にある聖火台に弓矢で放って点火したのだから。
その人物とは、パラアーチェリーのアントニオ・レボージョさんだった。名誉ある開会式に、パラのアスリートが選ばれたことも画期的だったと言えよう。過去にはそうした例はなかったように思う。
何よりその名手から放たれた聖火は美しい弧を描き、見事に聖火台を灯して、バルセロナ大会が始まった。
前回の1988年ソウル大会からその名前を正式にパラリンピックとしたが、オリンピックと並んでパラリンピックへの認知度が高まっていく、先駆けのような気がした。

スペインの首都マドリードはマドリード州都なら、バルセロナはカタルーニャ自治区の州都である。
本来スペインは複数17の自治区から成立しており、内戦を経て、フランコ将軍による全国制圧により、マドリードを中心に全国を収める形になった。
そのためカタルーニャ地方では、長きに渡ったフランコ独裁時代には、独自の言語であるカタルーニャ語は禁止され、文化も制限された。
北のエリア、バスク地方もまた同じ運命にあった。それゆえフランコ時代には反政府組織によるテロが多く展開されたのもバスクだった。ちなみに現在サッカーの久保建英が所属するレアル・ソシエダは、バスク地方の一都市サンセバスチャンを本拠地にしている。
いずれにしてもスペインという国は複雑な歴史を持っているのだ。
まだ一度もオリンピックを開催したことのない国スペインにおいて、首都のマドリードより先にバルセロナが開催にこぎつけたことの意味もまた大きかった。
そこには当時のIOC(国際オリンピック委員会)会長であったアントニオ・サマランチ氏の存在があった。
サマランチ氏はバルセロナ出身で、1980年から2001年まで長くIOC会長を務め、バルセロナ招致にも尽力し、強い影響力があったことは否めない。
功罪あると言われたサマランチ会長だったが、商業主義推進と揶揄されながらも、プロの参加によるオリンピック競技の質の向上など功績も多々あった。

バルセロナ大会の運営は、IOC公用語のフランス語と、一般に広く話される英語、そして地元の言語として、スペイン語のみならずカタルーニャ語が採用された。
スペイン語とはマドリードを中心に一般的に話されるカスティーリャ語を指し、カタルーニャ語は方言のようでもあるが、スペイン語とはかなり違う言語だと聞かされた。
そもそもスペインを構成する17の自治州のうちカタルーニャのみならず、6つの自治州においては、カスティーリャ語と並んで別の言語が公用語となっている。

いずれにしてもバルセロナのアイデンティティーを守るような姿勢が感じられ、これもオリンピック開催における多様性の一つと言っても大げさではないだろう。
オリンピックにおいてはフランス語、英語、開催国の言葉を公用語とする規則の中で、開催国における2つの言語を尊重したのだから。
そうした歴史を経て、現在は多様性社会という言葉が重要視され、オリンピックでも尊重され始めた。
IOCでも、ジェンダー問題、人の平等という概念が、平和の祭典にとどまらない哲学になりつつある。
国や性別、宗教、趣味趣向など、お互いが認め合い尊重しあえることは理想であり、ほんの少しずつだがその世界の実現へ踏み出しつつあるのは望ましいことである。

話をオリンピックのスポーツと放送のエピソードに戻そう。
テレビマンとしてのバルセロナオリンピックの記憶は、JC(ジャパンコンソーシアム=NHKと民放の共同チーム)メンバーとして初めて働いたことだ。
JC組織はIOCへの放送権利金を共同で支払う目的があるが、大会中は協力し合って放送制作をする母体でもある。
NHKがリードしながらも、民放各局からスタッフを出し合い、現地業務が振り分けられる。

1991年世界陸上東京大会を放送した実績を買われて、日本テレビからは私をはじめ計3名が、陸上競技を中心に業務にあたった。
JCは、この大会で陸上と、水泳にJC独自のカメラを導入して、日本国内の視聴者のニーズになるだけ答えられる制作システムを採用したが、これはJCオリンピック体制で初めてのことだった。
オリンピックにおける国際映像は、ホスト国中心のテレビ組織が制作し、各国平等というか、特定の国への偏りを排除したものだ。
正式には、現場の音声ノイズと映像を合わせて国際信号と呼ぶのだが、ここではわかりやすく国際映像と呼ぶことにする。

開会式を例にとると、日本選手団が入場したら、その前後の入場国との撮影バランスは均等なので、すぐに日本選手団の映像は終わってしまう。
そこでJCが独自にスタジアムに設置したカメラで、日本選手映像を撮るのである。日本の視聴者がより注目している対象に光を当てるということだ。
ちなみに独自で用意するカメラをユニカメラと呼ぶ。
この手法で、陸上や水泳競技においても、レーン、コース紹介時や、ゴール後の瞬間を、日本選手を中心にユニカメラで捉えて、国際映像に挟み込んでいくのである。
メダリストなら国際映像は撮ってくれるが、8位入賞ではなかなかアップをとらえてもらえないからだ。
そのために開会式、陸上競技のメイン会場となった、モンジュイック・スタジアムの脇にキャビンという小屋が中継車の代わりに建てられ、そこを拠点に私は仕事をした。
2台のカメラを駆使して、予選で落ちるなどして国際映像が捉えない日本選手の表情を、日本視聴者に届けた。
またレース途中で日本向けの番組が開始する冒頭タイミングなどでは、スタジアムの全体が映るワイドショットで入るなどして番組の体裁を整えた。

そして何より、生放送の最中にJC独自でのインタビューを映像、音声共に乗せることも可能になった。
レース直後の息が上がった状態でのインタビューは臨場感にあふれていた。
その新しいシステムが、今まで零れ落ちていたかもしれないアスリートの感動の瞬間を切り取った。

14歳の岩崎恭子が水泳女子平泳ぎ200mで金メダルを獲得し「今まで生きてきた中で、一番幸せです」。
このコメントに日本中が微笑ましく思えたが、いったいいくつなの?と突っ込む人もいたであろう。いずれにしても快挙だった。
男子マラソンで森下の銀メダル獲得も素晴らしかったが、8位に終わった谷口のゴール後の「こけちゃいました」が多くの人々の心に刻まれた。
真剣に勝負してもなお叶わなかっただけ、レース途中に他選手に踏まれて靴が脱げるアクシデントにも悪びれず、運がなかったと潔かった。
そして男子陸上400mトラック競技では、高野進の、日本短距離界60年ぶりのファイナリストとしての雄姿と感激の声を、生放送で届けることが出来た。

その後もJCが用意した、日本向け独自のカメラとマイクを通じて、2004年アテネ大会、男子水泳・北島康介の「気持ちええ、超気持ちええ!」など数々の歴史に残るアスリートたちの競技直後の素直な感動を表すコメントを、生放送で伝えることが出来るようになったのであるが、この1992年バルセロナ大会が先駆けだった。
以降、柔道やレスリング会場など、日本選手のメダル獲得が期待される種目を中心に、このシステムは大会を追うごとに拡充していった。

そしてNHK、民放5局を中心に選抜派遣されたJCにおける私の組織体験もまた、放送制作現場における多様性との出会いだった。
まず、放送進行中の段取りの違い。例えば、NHKはメイン実況のサポートは制作スタッフがするが、民放局の多くは、メイン実況の隣に、同じくアナウンサーがサブアナと称して座り、情報の確認を支援する。JCではスタッフ数が潤沢でないので、制作スタッフがアナウンサーの横で、例えばバレーボールならブロック、サービスエースの数を調べたり、陸上、水泳なら4位以下の選手の着順を瞬時に確認して、アナウンサーをアシストするなどである。
普段はCMや企画VTRを挿入する段取りを中心に作業するだけに、民放スタッフはやや面食らったのも事実である。

業務で使用する、放送用語も違った。
私はいつも前もって準備してほしい、次はこの映像を狙うなど指示する時に周りのスタッフに「前キュー」という言葉を使う。
本来キューとは、一斉にゴーのサインだが、「これは前キューだから、スタンバイしてね、次に行くから心しておいてね」の意味で、入社当時から先輩に、この前キュー(すなわち最終指令の一歩前)が一番大切だと教え込まれた。
ところが初めて一緒に現場で仕事をしたNHKスタッフから、何ですか、それ?と聞かれた。
キューの指令は放送業界全体で使用するが、前もって、心の準備するようにという「前キュー」は少なくともNHKでは使わないことが分かった。
放送用語もみんな同じだと思っていたが、出身放送局の風土で違うものだ。
ちなみに、日本テレビでは野球中継のカメラ映像の切り替えを、開局当時から制作ディレクターが担当してきた伝統がある。
通常この作業は、ディレクターのキュー(指示)をもとに技術職(スイッチャー)が行うのがいわば常識だったので、その話にも他局のスタッフにはたいそう驚かれた。

このように同じ放送制作現場でも多様性があったのだが、JC業務において、ほかにも違いを感じた出来事があった。
下世話な話だが、それは業務の一環で残業をしていた、技術スタッフのお弁当についてである。
NHKはいつもの局内ルールとして、食堂に行けない環境の場合、”振給”と称してお弁当は手配するが、費用は自己負担とのことだ
生中継業務に合わせるため、食事時間も取れない、かつ食堂にも行けない状況下での話ではあるが、民放局の多くはそうしたケースでは、弁当代は制作費で賄われるケースがほとんどだ。
大会前半、この件で大の大人同士が少しだけもめた。
別にお金が惜しいとかではなく、普段の当たり前が、そうではない違和感がそうさせたのだろう。
JC内では慌てて共通ルールが設けられて、そうした場合は共通認識として制作費払いとなった。

それにしても、”振給”という言葉も初めて聞いた。
気になって調べたら、「律令性において高齢者や病人、困窮者などに対して国家が米や塩などの食料品や、布など衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す。」とのこと。律令性?いつの時代だろう。
ネーミングに深い意味はなく、テレビ番組のケンミンショーではないが、これはNHKしか使用しない方言のようなもので、起源は諸説あるのだろう。
ただし課税や給与扱いの可否など、企業の雇用者に対する弁当支給には厳密な条件があることも初めて知った。
自分たちのあたりまえが、当たり前ではない。これも違う放送局で育った文化の違いの一つであった。

バルセロナの16日間はあっという間に過ぎた。
忘れがたい開会式・・3大テノールの一人、地元スペイン人の誇りであるホセ・カレーラスが総指揮を執る音楽に乗せて、地中海の神話をテーマにしたマスゲームが繰り広げられた。
そして後半の締めくくりは坂本龍一さんがオーケストラの指揮を執り、自身の作曲による、音楽「El Mar Mediterrani」を披露した。日本語では「地中海のテーマ」と呼ばれる美しい曲は、薄暮のモンジュイックの丘に響き渡った。
日本人の音楽家がスペインで開催のオリンピックの開会式に選ばれること自体が、誇らしかった。
これから始まる祭典が幸福に満ちたものになるような予感がする様な、穏やかで美しい音楽に会場は満ち溢れた。

開会式や陸上競技を主に担当させてもらったこともあり、長時間の勤務に毎日の睡眠時間は2,3時間だった。
それでも本当に楽しかった。
閉会式で、大会マスコットの”コビー”(ピレネー犬である、カタルーニャン・シープドッグをモチーフに、世界的デザイナーのスペイン人、ハビエル・マリスカルが作成した)が、空高く舞い上がって漆黒の夜空に消えていった。
そこにはスペイン語で”Amigos para siempre”(永遠の友達)の文字が浮かび上がっていた。
実は、JCで一緒に働いた同世代の各局スタッフとはいまだに友人として付き合いがあるから、あの地中海都市での短い日々を今でも共に懐かしむ事がある。

バルセロナのその後の歩みに目を向けると、都市はますます進化しスーパーブロックプロジェクトという名のもとに、もともとあった碁盤の目の区画ごとに、生活圏を確立し地元の人々が暮らしやすいい環境つくりの進化を止めない。
ブロック内の街路は、時速10kmに制限された1車線とし、生み出されたエリアにベンチを置いたり、植栽を植えたりすることで歩行者優先の生活空間を生み出している。

そして多くの人が、カタルーニャの国としての独立の夢も捨ててはいないと聞く。
自分たちの言葉や文化まで抑圧されてきた歴史があるため、まずはその存在を取り戻すところが一番のはずだ。
本来なら、多様性を認めることと、自己のアイデンティティ―にこだわるということとは、相反すると思うかもしれない。
本来なら自分の住む場所、文化をきちんと守られてこそ、外からの刺激や、新しい別の何かを容認する寛容さが生まれると考えるからだ。
しかしカタルーニャの人々のように、それでもなお多様なものを受け入れることに積極的な姿勢や風土には感心する。
2023年現在、バルセロナの人口は約166万人だが、スペイン以外の国籍を持つ居住者は36万3576人もおり、177もの国籍の移民が住んでいるそうだ。
177国籍!なんと多様な人々がこの都市で生活しているのだろう。
そしてガウディのサグラダファミリアをはじめ、様々な魅力を持つ観光都市としても、海外から多くの訪問客も受け入れ続けている。
私個人も訪問するたびに、人懐こい笑顔の人々に迎えられて幸せな気分になり、異邦人と感じたことは一度もない。

この魅力ある都市の湾岸エリアは、バルセロネータと呼ばれ、人々の憩いの場だ。
美しい白砂の海辺と青く光る海岸線は、とても美しく、目の前は広大な地中海である。
髪をなでる様な地中海の風が心地よかった。
水平線の向こうは、海峡を隔ててアフリカ大陸のモロッコへ続いていると聞かされ、世界は繋がっていると実感した。
オリンピックが終わった翌日の唯一の休日に、海辺のレストランで食べたパエリャ(魚介や鶏肉の炊き込みご飯)は、最高に美味しかった。


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