Essay

シリーズ・記憶の解凍⑬「1994年リレハンメルオリンピック」~カタリナ・ビットの”花はどこへ行った”~

記憶の解凍とは、白黒写真をAIでカラー化して蘇らせて、記憶を鮮明に継承していく東京大学のプロジェクトのことである。

”花はどこへ行った”(原題・Where have all the flowers gone?)
特に1960年代に圧倒的に若者を中心に支持された、反戦歌の一つと言われた名曲である。
アメリカではベトナム戦争が泥沼の様相を呈していた時代でに、盛んに歌われたという。
1955年にアメリカンフォークソングの父と言われたピート・シーガーが作曲し、多くのミュージシャンがカバーしたが、ピーター、ポール&マリーというトリオの歌が日本ではヒットしたように思う。また多くの日本人歌手もカバーをしている。
現代の若者にはピンとこないかもしれないが、耳にすればどこかで聞いたことがあるかもしれない名曲だ。
シンプルで、切なく美しく響くメロディ―に乗せた歌詞は、以下のようであり、戦争への批判が比喩的に表現されているといわれる。
以外と歌詞を知っている人は少ないかもしれない。
以下は日本語訳の引用である。

♪ 花はどこに行ってしまったの? ずいぶん時間が過ぎてる  花はどこに行ってしまったの? ずっと遠い昔に
花はどこに行ってしまったの? 若い娘たちがみんな摘んでいった
ああ いつになったら分かるんだろう?  ああ いつになったら分かるんだろう?

若い娘達はどこに行ってしまったの? ずいぶん時間が過ぎてる 若い娘達はどこに行ってしまったの? ずっと遠い昔に
若い娘たちはどこに行ってしまったの?  みんな夫を探しに行った
ああ いつになったら分かるんだろう?  ああ いつになったら分かるんだろう?

夫はどこに行ってしまったの? ずいぶん時間が過ぎてる  夫はどこに行ってしまったの? ずっと遠い昔に 
夫たちはどこに行ってしまったの?  みんな兵隊になった
ああ いつになったら分かるんだろう?  ああ いつになったら分かるんだろう?

兵隊たちはどこに行ってしまったの? ずいぶん時間が過ぎてる 兵隊たちはどこに行ってしまったの? ずっと遠い昔に
兵隊たちはどこに行ってしまったの?  みんな墓場に行ってしまった
ああ いつになったら分かるんだろう?  ああ いつになったら分かるんだろう?

墓場はどこに行ってしまったの?  ずいぶん時間が過ぎてる  墓場はどこに行ってしまったの? ずっと遠い昔に
墓場はどこに行ってしまったの?  みんな花になってしまった
ああ いつになったら分かるんだろう?  ああ いつになったら分かるんだろう? ♪

1994年ノルウェー、リレハンメルのリンクに”花はどこへ行った”のメロディーが流れた。
1984年サラエボ、1988年カルガリーとオリンピックにおいて女子フィギアスケート連覇を成し遂げたカタリーナ・ビット(ドイツ)のフリー演技の楽曲だった。
ビットは当時すでに29歳で、プロにも転向していたが、1994年リレハンメル大会に出場した。
規則が変わりプロでも参加できるようになっていたが、2つも金メダルを持っていたビットが単純に3個目のメダルを狙いに、29歳で6年ぶりのオリンピックに挑んだわけではなかった。

ビットは旧東ドイツの生まれで、オリンピック連覇の偉業、世界フィギア4回優勝、欧州選手権6連勝を果たした。フィギア界のカリスマと呼ばれる一方、祖国東ドイツ時代には国家・秘密警察の厳しい監視にあうなど苦労をし、1989年、共産主義国であった東ドイツからアメリカに亡命しプロスケーターに転向した。

1989年11月のベルリンの壁崩壊をきっかけに、戦後の東西冷戦は急激に進んだ。しかしこの雪解けに伴う痛みは、あちこちで見られた。
1988年カルガリー大会以降の世界、特に欧州では1989年以降の東西ドイツの統一、ユーゴスラビアの解体などと歴史が大きく動いた時代であった。
ビットが19歳で初めて金メダルを獲得した思い出の地サラエボは、旧ユーゴスラビアの一都市であったが、その後1991年から95年まで民族紛争による攻撃を受けて街は荒廃した。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争と呼ばれたこの内紛により、25万人が命を落とし、200万人以上という多くの人々が住む家を失った。
ビットも滑ったゼトラのオリンピックパークのスケートリンクも空爆を受けて、周辺は墓地になってしまった。
ビット自身も旧東ドイツで育ち、その激動の時代を目のあたりにして生きてきたから、東西の壁や、戦争や民族の争いに心を痛めていたに違いない。

そのような背景をもとに、ビットはオリンピックに帰ってきた。
1988年のカルガリー大会でビットの”カルメン”は芸術性にあふれ、何より情熱的で記憶に刻まれた。
そしてリレハンメルで選んだフリーの楽曲は、”花はどこへ行った”であった。
参加する以上、ベストパフォーマンスを尽くしメダルを狙わないアスリートはいないだろう。
しかしビットには、もう一つ大事な意志と覚悟があった。それはオリンピックとう全世界の人々が注目する舞台で、戦争への無言の抗議メッセージを込めることだった。
そしてサラエボへの想いを込めて滑ることが、全ての戦争のある国や都市への祈りに繋がると思ったからに違いない。

もともと優雅なスケーティングで一世を風靡したビットの演技は、その日のフリーではジャンプに失敗するなど、往年の輝きはなかったかもしれない。
しかし滑り出しの、祈りを捧げる様なポーズ、情感を込めた優しい仕草など、”花はどこへ行った”の、少しもの悲しいメロディ―と相まって見ている人の心を揺さぶった。
結果は7位とメダルには届かなかったが、おそらく世界中の10億人以上の人々が、ビットのその無言の語りかけに共感したのではないか。
史上初、唯一無二の女子フィギア連覇という銀盤の女王の振る舞いだからこそ、説得力があった。
同じアクションを起こすなら、全世界の目が集まるオリンピックでという強い思いが、ビットにもあったのだろう。

IOC(国際オリンピック連盟)は、1992年に「オリンピック休戦」なるものを提唱して1994年のこのリレハンメル大会から採用した。
オリンピック休戦とは、オリンピック開幕7日前から、パラリンピック閉幕の7日後までの期間で、世界中のあらゆる戦争を休戦しましょうというものである。
どこまで強制力があるかは正直に疑問だが、国際連合決議として具体化されたものだ。
にもかかわらず、休戦ルールを破った事例はもうすでに3度も起きている。
2008年北京大会の、なんと開会式の日に、ロシアは隣国ジョージアに侵攻した。
さらに2014年ソチ大会時には、ロシアはウクライナ領土だったクリミア半島に侵攻し、自国開催の名誉に傷をつけたとも言われた。
そして記憶に新しいところで2022年北京大会では、パラリンピック閉幕後の休戦期間中に、ロシアはウクライナに攻撃を開始し、現在の泥沼の戦争が始まって、いまだに終わらない。
ああ、いつになったら人類はわかるのだろう。長い愚かな時間が過ぎている。
兵隊たちだけでなく、花を摘んでいたであろう一般市民までもが、墓場に行ってしまっているのだ。

オリンピック休戦が、いくら国連決議といっても、しょせん上記のように最終強制力のないものだが、そうした呼びかけがあること自体は望ましいと思う。
しかし、IOCはじめオリンピック関係者たちが、世界から戦争がなくなり、憎しみあいのない平和な祭典を開催することに、どのような力を発揮できるかは難しいところだ。
それでもオリンピックには、現在世界中から約200か国の国々が参加し、基本的に政治の介入やテロリズムを許さない純粋なスポーツ大会として存在している。そこに集うのは精鋭のアスリートたちだ。
参加国の関係者、選手たちの一つ一つの努力や具体的な行動、何よりスポーツの持つ力に期待したいとは思う。
しかし戦後でも、1980年モスクワ大会の西側諸国不参加(日本もアメリカに追随)という事実や、ロシアの戦争も一向に止まらない。

このように無力のように思われるオリンピックの平和理念だが、それでも大会ごとにIOCは「オリンピック休戦」の思想を、目に見える形で示そうとしている。
それが、「休戦の壁(ムラ―ル)」と呼ばれるものだ。2006年トリノ冬季大会から始められた。
平和への願いを込めて大会中には選手村に設置されて、参加アスリートや関係者がその壁の様なボードに、署名や、それぞれの思いを書き入れて、趣旨に賛同するというものである。
私が初めてじっくりとそのムラ―ルを見たのはリオ大会の選手村だが、そこにはIOC会長やウサイン・ボルト(陸上金メダリスト)の書き込みもあった。
東京大会でも選手村の中に設置されたが、一般の方には公開されていない仕組みなのは残念だ。
あくまで趣旨は、参加したアスリートや関係者を対象に向けられるもので、「オリンピック競技大会は、世界の人々との懸け橋となるものである。オリンピックの理念である平和、友好、相互理解を促進するための機会を提供し、署名することでオリンピック休戦と世界を一つにする力への支持表明である」ということなのだが。
そのレガシーとして東京都は、有明の旧体操会場に設置したり、TOKYO2020レガシー展なるものを有楽町で開催したりしているが、宣伝もあまりしていないことが大変残念だ。そもそもムラ―ルの何たるかを知る人は少ないのだから。
ムラ―ル自体は、無機質なただの壁だが、そこに込められた平和へのメッセージの、万人へのきちんとした伝わり方を大切にすべきなのだと私は思う。

結局は、スポーツの世界からの発信なんて、どうせ無力であるとか、それは政治に任せましょうとなるのかもしれない。
しかしカタリーナ・ビットのように、ささやかなアクションを起こすことは可能なのだ。そのアクションの仕方も様々にあるのだろう。反戦ムラ―ルへの署名だってもちろんかまわない。
いずれにしても不可能かもしれない、絶対に実現できないと諦めたら、おそらく世界はもっと悪い方向に向くかもしれない。
あの時ビットの”花はどこへ行った”の演技を素晴らしいと思い、込めた反戦へのメッセージを感じて、純粋に戦争下にある人々の暮らしを思いやった人が少しでも多くいたなら・・。
そして戦争を世界からなくすという確たる思想の共有、そしてその実現へのアクションを何らかの形で起こすムーブメントになっていくなら、きっとこれからもアスリートの持つ力は無限大なのだと信じたい。
ならば、オリンピックをきちんと継続し、時に自国で開催する意義も見いだせると私は思う。

東京オリンピック選手村に設置された「休戦ムラ―ル」は、東京都が2023年12月15日から2024年3月10日までTOKYO2020レガシー展にて公開している。
(有楽町・入場無料) 参加した世界中のアスリートの署名が並ぶ東京大会の壁は、日本らしい木材を利用したものであった。

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