音楽家の坂本龍一さんが3月28日に亡くなられた。まだ71歳の若さで、稀代の天才音楽家を失ったことは大きな悲しみである。
私の様な音楽に精通していない者でも、YMO時代の輝きから、大島渚監督映画「戦場のメリークリスマス」音楽担当、さらには映画「ラストエンペラー」における音楽監督として、日本人で初のアカデミー音楽賞を受賞するなどの素晴らしい功績は知っている。
私が7年半、在籍した東京オリンピック・パラリンピック組織委員会では、準備当初の2015年頃には、開会式はいったいどのようなプランが素敵だろうか?いかなる演出が用意されて、またその参加アーチストは誰がいいか?よく雑談をしたものである。
出向してきた東京都職員や銀行や旅行代理店や、様々な老若男女のスタッフで酒の席でも盛り上がったのが、こうした開会式演出話である。その中でもやはりオリンピックの大会テーマ音楽や、式でのパフォーマンスへの興味は大きく、その中で必ず名前が挙がったのが坂本龍一さんである。
日本を代表して、世界的にも有名な音楽家と言えば、思い浮かばない人はいないのだろう。
かつての開会式でも、やはり開催国が生んだアーティストを中心に起用し、感動を呼んできた。
2012年のロンドン大会で、元ビートルズのポール・マッカートニーがピアノを弾きながら歌った「ヘイ・ジュード」はあまりに有名だ。
そう、私は東京のオリンピックの開会式では坂本龍一さんのピアノ独奏やオーケストラを指揮する姿をみてみたいとずっと思っていたが、叶わなかった。私は開会式担当ではなかったから、組織委として交渉したのかどうかもわからずじまいだった。
そのころから体調も万全ではなかったようにも思う。
東北復興などを最優先に考え、東京2020のオリンピックの趣旨に賛同できなかったのかもしれない。
もちろんMISIAさんも、パラリンピックの布袋寅泰さんも本当に素晴らしかった。
ただ個人的な思いとして、1992年バルセロナオリンピックの開会式の印象が強く残っていたから、坂本さんのパフォーマンスを再び、東京のオリンピックスタジアムで見たかっただけだ。
バルセロナ大会の開会式の総合プロデューサーであったPEPO SOL氏により指名された坂本さんは、最初は「ナショナリズムを高揚させるイベントは嫌い」だと辞退したが、度重なるオファーにより引き受けたと聞く。しかもギャラは他の出演者と同じで1ドルだったらしいが、正確な報道で聞いたわけではない。そんなことはさておき、あの時坂本さんは間違いなくオリンピックの舞台に登場した。
1992年7月25日、会場は地中海沿岸の湾岸都市バルセロナ、モンジュイックの丘にあるオリンピックスタジアム。
時間は、現地の午後9時になろうとしていたが、まだあたりは薄暮で太陽は沈んでいなかった。
スタジアムを吹き抜ける7月の地中海の風も心地よく、スペイン独特の昼間の暑さを忘れさせた。
開会式はスタートから圧巻だった。3大テノールの一人で、世界に知られるスペイン人のホセ・カレーラスが総指揮を執る音楽に乗せて、地中海の神話をテーマにしたマスゲームが繰り広げられた。
そして後半の締めくくりは坂本さんがオーケストラの指揮を執り、自身の作曲による、音楽「El Mar Mediterrani」を披露した。
日本語では「地中海のテーマ」というものだ。
これから始まる祭典が幸福に満ちたものになるに違いない予感がする様な、穏やかで美しい音楽に会場は満ち溢れた。
私は、幸運なことに日本テレビからJC(ジャパンコンソーシアム)に派遣されて、この開会式の中継現場の放送席で仕事をさせてもらった。
JCとはNHK含む全民放局から派遣された混成チームの業務であり、日本テレビは開会式の放送枠がないにもかかわらず、スタジアムが見渡せる特等席で、放送枠のあるNHKとTBSのための制作要員として働いた。
その約3時間にもわたる開会式は、IOCの公式映像「Olympic Channel」で、現在でもフルに観ることができる。
31年前のスタジアムでは気が付かなかったが、まだ40歳の坂本さんは髪をかき上げながら一心不乱にタクトを振っている。
奏でるオーケストラの旋律に酔う、外国人の観客のアップが映し出された。
夕やみ迫るバルセロナの街並みが薄紫の色彩を放つ。
坂本さんの楽曲はその地中海の一都市の風景に溶けこんだ。
全てが本当に美しかった。
スペインという異国の地、テレビを通じて世界何十億の人が同時に見つめる舞台で輝く日本人音楽家が、誇らしかった。
パラ・アーチェリーのアントニオ・レボージョさんが、弓矢で聖火を放ち、遠く離れた聖火台に点灯するアイデアも凄かったので、是非機会があればフルで3時間の開会式の映像を振り返ってみて欲しいと思う。
名作映画は、オープニングからラストシーンまで観てこそ、その偉大さがわかるというものと同じだから。
そして、後にオリンピック史上最も壮大かつ、美しいと賞賛された開会式における、数々の素晴らしい登場人物、表現者のうちの一人が坂本龍一であり、美しい音楽に溢れた式典全体のクライマックスを担ったと思うから、全体の美しい流れも観て欲しいからだ。
きっとこの映像や音声は100年後も愛されるものだと、私は思う。
坂本龍一を教授と呼ぶファンは多い。
由来は、YMO時代の盟友、高橋幸宏さんが命名したと聞く。当時、東京芸術大学音楽学部の修士だった坂本さんのことを、ならば教授だね!といった会話かららしい。
その高橋さんも1月に亡くなられたのが悲しい。そういえば、環境問題にも関心を寄せて、100年後の世界環境を語り、東北震災の支援も精力的に取り組む姿は、音楽家であると共に、どこかの名物教授とも呼べるような存在だったと思う。
そして後年は眼鏡が大変似合う風情もまた、教授そのものだったと感じる。
色々なことを授業で教えてくれそうな頼もしい存在にも感じられたし、実際に音楽だけでなく幅広く人間の営みについて思索されていたように思う。
東北大震災で被害にあったピアノの音色を復活させた彼の行動にも感動した。
津波に吞み込まれてもピアノは生きていたから、多くの愛情と、ほんの少しの修理を加えて再び命を吹き込んだ。
坂本さんの東京、ニューヨーク、そして足しげく通った震災の東北での活動は素晴らしいものばかりだったと思うが、あのバルセロナのパフォーマンスも何と素敵なことだったか。
世界に向けて、様々な表現や、行為、活動でメッセージを込めるのは大事だと思う。しかし、ただただ美しい、ひたすらに穏やかな気持ちにさせる、また聴きたい、誰かに聴かせたい、そしてみんなで語り継ぎたくなる想いが生まれる場を生み出すことは、人生を豊かにさせるのではないか。
あの時の坂本さんを現場で見て、その音楽を生で聞いた私は、この天才音楽家がこの場にいることは本当にふさわしいと思った。
いまでこそSNSを中心に映像や音声で様々な活動も発信できる時代になった。
坂本さんに限らず、日々の制作活動こそベースであり、毎日表現者として生きているのだろうから、オリンピック開会式での演奏が特別なものではないのかもしれない。
もっと言えば何もアカデミー賞のために音楽家として生きているわけでもないであろう。
スポーツにおけるアスリートも同様で、大会に備えた毎日のトレーニングや練習試合などで切磋琢磨しているから、オリンピックの舞台だけが存在意義のあるものとは限らないだろう。
しかし、その表現の場がオリンピックという大舞台では、世界の人々が同時に共有体験できて、そのパフォーマンスに感動し、さらにそれが永遠に継承されていくだけのインパクトを持っていると思うと、やはり大事にしたい。
スポーツも音楽も、その他の芸術も全て、人間の表現として素敵なものだ。そして偉大な功績は讃えると共に、継承していかなければならないものだとも強く感じる。
あのバルセロナの地中海の爽やかな風は、今振り返れば、今後も守るべき自然と人間との調和を感じさせてくれた。
さらに坂本さんは亡くなる直前まで、東京の神宮外苑の再開発に関しても警鐘を鳴らし、未来の子供たちへ残すべき自然の大切さを訴えていた。
100年先に残すのは何か?音楽、スポーツの伝統や記憶も大事、しかし何より未来の子供たちが生きやすい環境こそが残すべきものだと坂本さんは言いたかったと思う。
私も、そのような美しい環境の中で、思いっきりスポーツや、音楽をはじめとする芸術を楽しむ世界が失われないことを祈ってやまない。
もし万が一、神宮周辺の樹木伐採の影響で自然破壊が進むとしたら、そこにあるスタジアムや球場で、人々はスポーツを本当に楽しむことはできないはずだ。
世界中のいたるところで平和で穏やかな、まるで地中海を吹き渡る風の様な自然の美しさを、いつまでも享受したいし、未来の子供たちにも感じ続けて欲しい。
そのためには、人類の皆さん、これだけは注意しなさい、ここは守りましょう、などと坂本さんは教壇に立つように教えようとしていたように感じてならない。
それも押し付けがましくなく、未来の子供たちのためだからと、優しく語っていたように思う。
昨年12月に配信された「戦場のメリークリスマス」のピアノ独奏を聞いた。一つ一つの音を愛おしむような演奏に鳥肌が立った。
これで引退とわかっているアスリートが挑む最後の試合への覚悟と同じ、いやそれ以上のものを感じた。
100年先のことに思いを馳せられるような人類になるための、力や知恵や努力までを教えてくれた坂本龍一教授、
改めて心から、ご冥福をお祈りしたいと思う。
関連記事として、以下のエッセイもご参照ください。シリーズ・記憶の解凍⑮「1992年バルセロナオリンピック」~地中海都市の輝きと多様性へのプロローグ~ - スポーツジャーナリスト 福田泰久 (yasuhisafukuda.com)